第九章
時雨を手中に収める。
目の前にいるナナコが言った言葉の意味がわからず、亜華音はしばらく何も言えずにナナコを見つめていた。
「へえ、こんな反応をするんだねえ。面白い子じゃないか、美鳥」
「先輩、からかわないであげてください」
ナナコが楽しそうに言う隣で、美鳥はため息混じりにナナコに言う。それから、呆然としている亜華音を見た。
「……先輩、あとはあたしに任せてください」
「と、言うと？」
「あたしが、亜華音を説得しますから」
じっと亜華音を見つめる瞳は、鋭い。美鳥の視線を見たナナコはにっこりと笑った。
「うん、そうしよう。沙弥、あとは若い二人に任せようじゃないか」
ナナコのどこかずれている発言に対し、沙弥は何も言わずに本を閉じてナナコについて美術準備室を出た。室内には、亜華音と美鳥の二人だけ。
「亜華音？ おーい、亜華音」
「えっ」
ようやく意識を戻した亜華音は驚きの声を上げてあたりを見た。気づけば、ナナコの姿も沙弥の姿もない。
「美鳥、さっきの先輩は……」
「出たよ。多分、アカツキに行くんだと思う」
「アカツキに……。あ、さっきの話！」
「わかってる、説明するよ」
美鳥の声を聞いて、亜華音はどこか安心感を覚えていた。
反乱組織と、友人。そのアンバランスな図に不安を感じていた亜華音だったが、目の前にいる美鳥はいつもの美鳥。ぼんやりしたり突っ走ろうとしたりする亜華音に対して一声かけてくれる美鳥である。
「手中に収める、っていうのはナナコ先輩のぶっ飛んだ表現だからあんまり気にしないで。簡単に言えば、私たちは『赤月』と違って時雨を倒そうとか消そうとか思ってないから」
「そう、なの？」
全く関係図がわかっていなかった亜華音にとって、美鳥の話はとてもわかりやすいものだった。
学園自治組織『赤月』は時雨を抹消しようとしていて、それに対抗するために学園反乱組織を名乗る『レッドムーン』が立ち上げられたという。『レッドムーン』の目的は時雨を仲間にして、共に『赤月』と戦うこと、というのが美鳥の話だった。
「でも時雨は『赤月』にも『レッドムーン』にも属していない。だから、話が厄介なのよ」
「なるほど……」
「それで、その厄介な話に亜華音が入ってきてさらに厄介になってるの」
困ったように美鳥が大げさなため息を吐く。意味がわからずに、亜華音は「へ？」と素っ頓狂な声を上げた。
「どこにも属さない存在が二人になったら面倒でしょう？ しかも今現在、一番時雨に近いのは亜華音なのよ」
「私が、時雨さんに……？」
近い、といわれても実感が無かった。時雨と一緒にいた時間は長くないし、知っていることはほとんどない。
「ねえ、美鳥」
「何？」
「どうして、美鳥は反乱組織にいるの？」
予想もしていなかった亜華音の質問に、美鳥はぽかんとした顔を浮かべた。
「あれ、時雨とかアカツキの話は？」
「それもまあ……正直よくわかってないけど、でも、今は美鳥のことが知りたいから」
ぱちぱちと瞬きをする美鳥に対し、じっと美鳥を見つめる亜華音。先ほどまでとは立場が逆転したことに気づいた美鳥は小さくふき出した。突然笑った美鳥に亜華音が驚いたように声を上げる。
「な、何？ 何か私、変なこと言った？」
「ううん、別にいいんだけどね……ちょっと面白いなあって思っただけ」
そして笑いを収めて美鳥が亜華音の質問に答えた。
「あたしも亜華音に似たようなものよ」
「私に……？」
「そう。あたしは、今までとは違う自分になりたかったの」
視線を亜華音から窓の外に向けた美鳥がゆっくりと語り始める。
「今まで上手く行かないことばっかりだったから、新しい場所で新しい自分になって、いろんなことを上手に片づけたいって思った。そのとき、時雨と出会って、ナナコ先輩に出会った」
ナナコの名を呼ぶ美鳥の声は穏やかで、とても嬉しそうなものだった。声色の変化から、美鳥がどれほどナナコのことを思っているのか、亜華音は感じることができた。
「美鳥はナナコ先輩が好き、なの？」
「うん、好きだよ。憧れているし、ああなりたいって思ってる」
亜華音のほうを見て、笑みを浮かべてはっきりと亜華音は答えた。
赤い月が浮かんでいる。そんな空を、時雨は一人見ていた。
透と戦っていた時雨だったが、亜華音の魔法とナナコの乱入によって戦闘意欲を失った透は何も言わずにアカツキを去った。一人で残った時雨は、ただぼんやりと月を見つめている。
「一人で月見かい？ 寂しい人だね、時雨」
そんな呼びかけに時雨は視線を月から声のほうに向けた。
「そういう貴女は私に付き合ってくれるのかしら、ナナコ」
「ワタシでよろしいのなら、付き合おうか」
そこにいたのはナナコ。にこりと笑って時雨に答えるが、「ああ」と思い出したかのように付け足した。
「でも、ワタシよりもいいお相手がいるようだけれどね」
ナナコが言った瞬間、時雨の目が大きく見開かれる。時雨が跳躍して後ろに下がった直後、大きな衝撃音がそこに響いた。