***

 

 私が『谷原のことを好き』、と思う感情は一体何処からやってきたのだろうか。

「東雲、どうしたんだ?」

 谷原がきょとんとした顔で私を見る。突然黙り込んだ私を見て、谷原は何が起こっているかわかっていない様子だ。私の顔は、谷原が心配するほど深刻なものなのだろうか。

「東雲、何か嫌な事があったのか?」

「お前と一緒にいるといつも不快だ」

「……ちょっと凹む」

「凹め凹め。そのまま死ね」

「そんな、愛する人に死ねなんて言われたら俺、悲しい」

「ふうん」

 いつもと同じ谷原との会話は、私の胸にあったわだかまりを少し溶かした。谷原と話すときは、一番落ち着いていられる。そして私と谷原は初めて出会ったあの薄暗い路地裏にやってきていた。

 学校が終わり、私が友人たちと別れると必ず谷原は私の目の間に現れる。いつも違うスーツを着て、私に向かって小さく手を挙げる。人ごみにいても少し目立つ長身。爽やかな、誰よりも素敵な笑顔。もちろん、こんな言葉を谷原に言うつもりは無い。私と谷原は一緒に歩いて、何か会話をして、そしていつも同じ路地裏に入る。

「出会ってもう二週間だなあ。あの時、俺は東雲のスカートの中身を見たんだなあ……」

 うっとりとした表情で、谷原が言う。気持ち悪いので、鞄から取り出したナイフで腹を刺した。谷原は既にスーツの上着を脱いでいた。

「気持ち悪い、谷原」

「だって、アレが俺たちの出会いのきっかけだぞ」

「五月蝿い。早く死ねばいいのに」

「だから、何度も言わせるなって。東雲に愛を捧げ尽きるまで俺は死ぬわけにはいかないんだ」

「はいはい、わかったから早く滅べ」

 ナイフをぐりぐりと左右させながら私は言う。

 普通なら、ここで「嬉しい、私も谷原好きよ」とか言うものなのだろう。そこまでは無いだろうけれど、私は谷原の事が好きだ。普通に好き。嫌いなはずなんて無い。

 ただ、この思いを素直に伝えられない。

 谷原本人を前にすると、私は言葉が出てこない。正直、ここまで会話をつなげられているのも奇跡のようなものだ。谷原は、それに気付いているのか気付いていないのか、気付いていないだろうけれど、私との会話を楽しそうにしている。

「そう言って、東雲が俺のこと好きなのは知っているよ」

「黙れ谷原。本当に死ね谷原」

「だーかーら」

「それ以上言うな」

 足を蹴る。何度も何度も蹴ってしまう。好きなのになあ、と思うのに、蹴っている。

 ……ここで、私は思い出した。谷原と、初めて出会ったときのことを。私は谷原に殺意を覚えていた。殺そうと思っていた。本人は死んでいないが。でも、谷原といるといつも私は無性に谷原を刺したくなる。蹴りたくなる。殴りたくなる。それは、私が谷原に会うと嬉しくなるのと何か関係が有るのではないのだろうか。

 ナイフを谷原の腹から抜き、新聞紙に包んで鞄に入れた。突然の行動に、谷原は驚いているようだった。

「東雲?」

「いや、何でもない。帰る」

「なら送ろうか。ああ、ついでにご両親に挨拶をしようか」

「何で」

「結婚するから、俺たち」

 笑う谷原の無防備な腹に私は拳を入れた。小さな唸り声が聞こえたけれど、谷原はあんまり痛そうにしていない。腹立つ。

「次言ったら殺す」

「東雲に殺されるなら本望かな」

「滅べ」

 私はそう言い残して、谷原と別れた。少し道を抜けると、人通りのあるごくごくありふれた道。さっきまでいた裏路地とは別世界が広がっている。女子高校生も、男子高校生も、社会人も、いっぱいいる。彼らには、彼らなりの愛があるのだろう。

 けれど、私は不安に思い始めていた。谷原への愛情についてだった。

 私は、谷原という人間に対して愛情を覚えているのだろうか。

 私が好きなのは、谷原という人間ではなく、谷原へと抱く殺意ではないのだろうか。

 私は、本当に谷原が好きなのだろうか。

「……訳わかんない」

 恋なんて初体験の女子高校生にとって、この感情に悩まされることほど苦しいことは無い。目を閉じると笑う谷原の顔があって、耳を塞げば谷原の声が聞こえる。

「好きだ、東雲」

 

 素直に頷けない、私がいた。

 

 

***

 

 毎日毎日、私は谷原と会っていた。会っていた、と言うよりは帰り道に何故か必ず谷原がいるのだ。それから、裏路地に入って私は谷原を刺す。ナイフはいつも、学校に持って行っていた。別に持ち物検査はないし、これを使って谷原以外の誰かを刺そうとは思っていない。谷原以外を刺しても、全く意味はないのだ。全く。

 谷原と会うといつも刺したい衝動に駆られる。ナイフを取り出し、谷原の腹を、胸を、腕を、太ももを、刺す。谷原はそれで「素直だなあ」なんて笑って私の頭を撫でる。私が谷原に対して「死ね」や「滅べ」と言っているのは本心からである。顔を見ると早く死ねばいいのに、と思う。でも、それもそうだけれど、私は谷原に、素直に思いを伝えていない。

「私も好き」

 その一言を発するのに、どれだけ努力が必要なのだろう。まず、谷原に刺さっているナイフを抜いて、正面を向いて、それから言葉を発する。でも、できない。谷原を見ると、愛情よりも殺意の方が上回る。それはそんな風に思わせる谷原が異常なのか、それとも私が異常なのか、あるいは両方が異常なのか、ともかく私にはわかるはずのない問題なのである。

 

 毎日私たちは会っていたのだけれど、ある日、谷原は現れなくなった。奴もスーツを着ているから多分どこかの企業に勤めているだろう。なら、私の元に現れない日があっても別に何でもない。

 何でもない、けれど、さすがにそれが四日続いたら不安にもなる。毎日欠かさず、私のところに来ていた谷原が突然ぱったりこなくなったのだ。ぱったり、何も言わず。さらに時間は過ぎて一週間経っても、谷原は現れなかった。

「顔色、悪くない?」

「え?」

 クラスでぼんやり谷原のことを考えていたとき、クラスメイトが私の顔を見て不安げに声をかけた。

「このごろテンション異常に低いよね。それに、顔色も若干悪いし」

「マジ? 寝不足だからかな」

 別に、寝れていないわけではない。ただ、寝る前に漠然と谷原が来ないことに関しての不安が私にのしかかるだけ。

「保健室行ったら?」

「やだ、あの先生嫌いだし」

「大丈夫だって、すぐ寝かせてくれるよ」

「パス。大丈夫、次現代文だから寝とく」

 私はクラスメイトにそう言って、机に伏せることにした。でも、寝るつもりなんて無い。頭の中では、谷原の事が巡っている。

 目を閉じれば谷原の笑顔が出てくるし、耳を塞げば谷原の声が聞こえる。それなのに、少しずつ遠くなっている気がしてならない。一週間会えないだけ、それだけで私は不安になっていた。

 それは不安なのだろうか。欲求が、溜まっているだけじゃないのだろうか。刺したい、刺したいと私は思っているんじゃないのだろうか。頭の中で、自問を繰り返して、返ってこない自答。私が答えられないこの質問に、一体誰が答えられるのだろう。

「……谷原」

 きっと、谷原なら、答えられる。

 

***

 

 谷原と会わなくなってとうとう二週間が過ぎた。一週間を過ぎたあたりから、どんどん谷原という存在が実は嘘じゃないかと思ってしまうようになった。普通、腹を何度も刺されて一滴も血を出さない男、いや人間なんていないだろう。だから、谷原は私が見た幻。そう思っても、私の鞄の中には刃をぐるぐると新聞で巻いたあのナイフが入っている。けれど、いつもと同じところで友人たちと別れても、あの裏路地に入っても、谷原には会えなかった。

 私は、いつもと違う道で帰ることにした。友人と一緒に帰らず、いつも谷原がやってくるほうへと歩く。学生よりも、スーツを着た成人が多い。色々な企業が入っているビルがたくさんある所に私は来ていた。谷原が歩いていたら違和感のなさそうな、そんな街中。通らない道の向こう側に、私の知らない世界が広がっているなんて……谷原はきっと、この道を歩いてきていたのだろう。ぼんやりとした頭に、突然の言葉が入ってきた。

「本当に谷原さんが来なくなってから課長機嫌悪いわよね」

「おかげでこっちもとばっちり食らっちゃうしさぁ」

 OL風の女性二人組の会話が耳に届いて、私は足を止めた。そして、会話をしていた二人の元に走っていた。

「あの!」

「え?」

 女性二人が振り向いて私を見る。

「た、谷原……さん、って」

「あなた……谷原さんの、知り合い?」

 一人が驚いたような顔をして首を小さくかしげる。言葉が出ない、どうしよう。そう思っていても、口は既に動いていた。

「谷原の、親戚です。えっと、この間父に会いに来た時、忘れ物をしていて……」

「そうなの? でも谷原さんねえ」

 ちらりと、一人がもう一人の顔を見る。二人とも、困ったような顔をしている。

「あの……?」

「谷原さん、しばらく入院してるのよ」

 え?

「……入、院?」

「そう。もう二週間も」

「全然こなくなったからねえ……もしかして、怪我してるのかも」

「面会も拒否してるらしいから、重症、とか……?」

「確か、中央病院だと思うけど。もし、面会できたら早く復帰してね、って伝えてくれる?」

 入院、二週間、怪我、重症。頭の中で、単語が出ては消え、出ては消え。

「わかり、ました……。ありがとう、ございます……」

 谷原が、入院。怪我で、重症。

 心当たりは、いくらでもあった。

 

「谷原さん、ですか?」

 中央病院に行って、谷原と面会できるか尋ねた。受付の看護師さんは何枚か書類を取り出して、しばらく探していた。

「谷原さん、は……もう、いませんね」

「いな、い?」

 心当たりは、いくらでもあった。

 看護師さんが何かを言っていたけれど、言葉は聞こえない。

 目の前が白くなる。

 

 谷原は、もう、いない。

 

 もう、いないなんて。

 

 心当たりは、いくらでもあった。

 谷原は、刺しても痛がらなかった。苦しまなかったし、血も出なかった。けれど、谷原はきっと傷ついていたんだろう。私への愛だと、ただ純粋に信じて私に刺され続けていた。

 傷つけたのは、私。

 谷原を傷つけたのは、私。

「谷原……」

 いつも、谷原に出会う道を私は歩いていた。人が多くて、その中から谷原が笑いながらやってくる。「東雲!」なんて嬉しそうな顔をして、私に手を振って、駈け寄る。

「谷原」

 呼んでも、返事をしてくれる本人はいない。だって、谷原はもう、いないんだから。

「谷原、谷原……」

 私は、谷原が好き。

 会うたびに、谷原の事が好きになっていった。腹を刺して、谷原の甘すぎる言葉を受ける。死ね、なんていいながら喜んでいたのは誰でもない私。でも、私のほうから谷原に思いを伝えた回数なんてほんの数回。

「どうして、いなくなったんだ……」

 目が熱い。涙が、制服に落ちる。

 私は、まだちゃんと答えられていない。谷原にちゃんと「好き」って言ってない。

 殴りたい。蹴りたい。刺したい。でも、それ以上に伝えたい。私は、谷原が好きだって。刺すことができるから、って理由じゃなくて、谷原だから好きだって。大好きだって。

「谷原……!」

 

「東雲!」

 

 声が、聞こえた。

 つい先ほど歩いてきた方向を向くと、肩を上下させて荒い呼吸をするスーツの男がいた。その表情は驚きとか安堵とか喜びとかそんなものでぐしゃぐしゃになっていて、かっこいい顔が勿体無い。

「た、には……ら」

「東雲……、泣いてたのか?」

 谷原がすぐに駈け寄って、私の肩を掴む。私の顔を見て、私以上に泣きそうな顔をしていた。

「ごめん」

「え?」

「私のせいで、ご、ごめんな……」

「し、東雲?」

 言葉が本当に出てこない。目から涙が出てきて止まらない。谷原の胸を掴んで、顔を押し付けた。泣いてる顔を、谷原に見られたくなかった。谷原は小さく息を吐いて、私の背中を優しくさすった。

「どうして東雲が謝るんだ?」

「だって、入院っ、ずっと……私の、せい、でっ」

「東雲のせいじゃないって」

「だってっ、だって!」

「ただの風邪だから」

 ……うん?

「確かに、東雲にうつしちゃいけないからずっと会わないようにしてたけど、東雲のせいじゃないから」

「…………風邪?」

 私が尋ねると、谷原はこくりと頷いた。

「いや、ただの風邪だったんだけどな。でも、東雲は学生だから、もし俺が風邪でもうつしたら学業に影響出るだろう? だから、完治するまで入院していたんだ」

「風邪で、二週間も?」

「完治するまでそれぐらいかかったんだ。でもお医者さんには三日目ぐらいで退院してくれって言われたんだけど……」

 つまり私は、こいつの風邪のせいで涙を流したって言うのか。

「ふざけるな……」

「え?」

「心配したんだ! 連絡もしないで、ずっとずっと待ってて、それがただの風邪で入院?!」

「うん」

 子どものように頷いて、谷原は言った。私の堪忍袋の緒が切れた。

「このバカ谷原! 私が、どれだけ……し、心配、心配したかっ」

 涙が出てきた。谷原が笑いながら、頭を優しく撫でた。

「うん、ごめん」

「私、私の、せい、でっ……私のせいで怪我したのかと思った! 怪我して、入院して、いないって……もう会えないかと思った!」

「ごめん、ごめんな」

「私、私、まだ、何にも言ってないのに!」

「え?」

 あんなに言うのをためらっていたあの一言を、谷原の目の前で、顔を見て、言える。

「好き」

「……え」

 私の一言に、谷原が驚きを隠せない顔をした。

「東雲、本当に…………本当に?」

「わかったんだ、谷原。私、谷原が好きだ」

 頭がぐちゃぐちゃになっているけれど、私は伝えないといけないんだ。

「ずっとわからなかったんだ。谷原が好きなのか、でも、私は、谷原を刺したいだけかもしれないって」

「うん」

「谷原が、いなくなって……私、不安になった。刺したいから、っていう理由だけで不安になったと思った」

 体が、震える。でも谷原は、その震える私の肩に優しく手を乗せてくれた。

「うん、大丈夫だよ」

「でも、今なら、言えるんだ。この気持ちは、愛だって。谷原のことが、大好きだって」

「本当、に……」

「……私は、谷原が好き。刺したいって思うのも、愛だって確信できる」

 その瞬間、谷原の手が一気に私を抱きしめた。谷原の体温が、熱くなった私の体温をさらに上げた。熱く熱く、私は溶けそうな気がする。

「嬉しい」

「本当か?」

「俺が、東雲に嘘を言うわけないだろう」

「うん」

 それは、知ってる。

「だから東雲」

「何だ……?」

「結婚しよう、今すぐ」

 谷原の一言。

「……気持ち悪い」

 そして、私の一刺し。いつも通り、鞄の中に入っているナイフで谷原を刺す。

「東雲、刺す前はせめて一言言ってくれないと困るだろう」

「黙れ谷原、早く滅べ」

「そんなこと言って、愛情表現なんだろう、東雲」

「気持ち悪い」

 一刺しどころか私は一心不乱に刺していた。ああ、とても心地よい。これも、愛って思える。

「好きだ、谷原。だから滅べ」

「はっはっは、そんな素直に思いを伝えてくれる東雲が俺は大好きだ」

「あ、あそこです!」

 周りがやけに騒がしい。辺りを見ると、驚愕の表情の人々が私と谷原を見ていた。そして、一人が私たちを指さして、人々の隙間から警官がやってきた。

「あそこで、人が刺されてます!」

 

 そういえばここ、人ごみの中だったっけ。

 

 

***

 

 某警察署・取調室。

 

「ど、どういう事だね! ナイフなんて危ないだろう!! それより、君は無事なのか?!」

「いや、これはアレです! 彼女の手品なんですよ!」

「しかしこれは本物のナイフだろう!」

「違いますよー、これは俺と彼女の愛の手品なんです!」

「黙れ谷原」

「わっ、き、君また?!」

「ほ、ほら、俺刺されてますけど血の一滴も出てませんよ!」

「いやいやいやいやいやいや!」

「早く捕まえてください」

「なっ、東雲……。そんな、東雲が捕まると言うなら、俺も共に行こう!」

「この男を」

「え、東雲……?」

「こいつ、末期の変態です。早く捕まえてください。死刑にしてください」

「東雲、ちょっとそれは俺だって傷つくぞ」

「そうか、それは良かった。そのまま死ね」

「それでー……君たちの関係は一体何ですか?」

「恋人です」

「死ね谷原」

「そんな風に刺しながらも、俺のことが好きなんだろう! わかっているさ、東雲!」

「はいはい五月蝿い黙れ滅べ谷原」

「わかっているぞ東雲、愛している!」

「私も同じだから早く滅べ」

「…………何なんだ、この二人……」

 

 手品の延長上、ということで私と谷原は無事に釈放された。

「谷原」

「何だ、東雲?」

「……もう、いきなり居なくなったりしないよな」

 私が尋ねると、谷原は驚いたような顔をして、それからすぐに微笑んだ。

「当たり前だろ」

 優しい笑顔に、力強い言葉。やっぱり私は、この男が好きだ。

「さあて、今から東雲の家に行こう!」

「何でだ?」

「だって、結婚のご挨拶をしないといけないだろう?」

「死ね谷原!」

 ナイフで谷原の腹を刺しながら、私は笑う。

 

 

 我ながら、不器用な愛情表現だと思う。

 

 

 

前編   目次