時刻は午後八時。場所はリーザスが舞台を行うステージの控え室。

「…………」

 リーザスは、化粧台の前にうな垂れるように座っていた。肘を台の上に乗せて手を組み、握られた手に額を当てている。その姿はまるで、何かに祈るようなものだった。

「大丈夫……、大丈夫よ……」

 言葉とは裏腹に、彼女の声は小さく弱々しいものだった。組んでいる手も、寒さに凍えているかのように小刻みに震えている。

「大丈夫、大丈夫よ……」

 私は、踊れる。あのステージに戻って、スポットライトの光を浴びて、歓声を受け止めることが出来る。そう、理解しているはずだった。

――思いが強ければ、願いは必ず届く

「エル……」

 ずっと自分を支えてくれていた彼の姿は、ここにはない。リーザスはぎゅっと目を閉じて、手に込めていた力をさらに強めた。

「大丈夫、ですよ」

 その時、リーザスの手に誰かの手が重ねられる。はっと顔をあげて横を向けば、ジールが立っていた。自分の手に重ねられている彼の手は、ひどく、冷たい。

「……あなた」

「もう、貴女が恐れることは何もありません。大丈夫ですよ」

 サングラスの下の目は細く閉ざされ微笑んでいる。ジールの声を聞くたびに、リーザスの中に安心感のようなものが広がっていた。恐れることはない、という彼の言葉は本物である、とはっきりと思えたのだ。

「ありがとう、ジール。あなたが居てくれたから私はここまで戻ってこれたのよ」

「いいえ。僕は、出来るだけのことをしただけです」

 そう言うと、ジールは静かに手を離した。

「ここからは、貴女が出来ることをしてください」

 開かれたジールの目には、先ほどまでの穏やかさがかけらもない。しかし、リーザスは、それに気付いていない。

「貴女にしか出来ないことを……ね?」

「私にしか、できないこと」

 開かれたリーザスの口から出た言葉は、感情も無く意思も無い単調なもの。リーザスの瞳に輝きは無く、その代わりにアンクレットの橙の石が強く光っていた。

「さあ、僕に見せてください。貴女の、最高の輝きを……」

 

***

 

 同時刻。場所は舞台が行われるホールの外。

 チケットを手に入れることが出来なかった観客たちが、ナイトメアの登場を待って外に溢れていた。それを取り締まる警官たちや、ナイトメア対策をする警官たちなど、さまざまな声が交差して混雑している。

「……兄さん」

 そんな人ごみから少し離れた木陰に、アリアは立っていた。今にも泣きそうな、そんな顔をしてアリアは人ごみの中を見つめている。あの中に、兄がいるのかもしれない、と思いながら。

「……どうして、私を頼ってくれないの」

 アリアは目を閉じ、小さく呟く。あのときから、ずっと守られてばかりの自分。一緒にジーンと戦うようになっても、アリアは結局兄に守られているままだった。どんなにそばにいても、ジーンはアリアを頼ろうとはしなかった。

「……私だって」

 けれど、自分はあの時とは変わっている。もう、守られるだけの妹ではない。戦う術も、持っている。

 アリアは目を開き、腕時計で時間を確かめた。そろそろ、舞台が始まり、ナイトメアが現れる。

「兄さん。私だって、兄さんを守れるんだよ」

 アリアの身体が、光に包まれる。

 

***

 

 そして、時刻は午後九時。

 客席の照明が落ち、ステージに光が集中する。観客たちは大きな拍手をするが、シルヴァとレイラはただじっとステージを見つめているだけだった。

 ステージの袖から、リーザスが現れた。中央までゆっくりと歩き、客席を見て深く礼をする。その足元には、橙に輝くアンクレットがつけられている。

「――さあ、舞台の始まりよ」

 顔をあげたリーザスがそう言うと、音楽が鳴り始める。舞台の中央で、リーザスはただ一人、舞い始めた。

「素晴らしいね」

 シルヴァの隣にいるヒロキが小さく呟く。シルヴァは視線をヒロキに向けず、しかしその言葉の続きを待った。

「今までいろいろダンスの舞台を見たことはあるけれど、彼女ほどいい動きをするダンサーはいないね。こんな小さな国で収まるような器じゃない」

「……そうか」

「その反応だと、シルヴァくんはおれと違う意見をもっているようだね」

 シルヴァに尋ねながら、ヒロキは眼鏡の位置を直すように中指でブリッジを押す。シルヴァの金の瞳は一切ヒロキには向けられず、ただステージの中央にいるリーザスを見つめていた。

「あのダンサーは、踊っていない」

「……え?」

 ステージにいるリーザスは、間違いなく踊っている。それを、『踊っていない』というシルヴァの奇妙な発言に、ヒロキは眉をひそめるしか出来ない。

「人に見せるようなものには思えない。ただ、踊りを踊らされてる、って風にしか見えない」

「踊らされてる、ねえ」

 そう言われて、ヒロキは改めてステージのリーザスを見る。踊りの質自体はかなり高いものではあった。しかし、リーザスの表情に、何か違和感を抱いてしまった。

「なるほど。彼女、全然笑ってないね」

「……ああ」

「なくしている」

 シルヴァの頷きのあと、レイラが小さく呟く。ヒロキはシルヴァ越しに、レイラの顔を見た。じっとステージを見つめる表情は真剣、というよりも無に等しかった。それはまるで、ステージ上にいるリーザスと同じようなもの。

「……君は」

 ヒロキがレイラに声をかけようとしたが、その声はレイラには届かなかった。

 ぱちん、と指を鳴らす音が響き、音楽が停止した。そして、客席は白い閃光に包まれる。

「何っ?!」

「ナイトメアか!!」

「何も見えない!」

 混乱する客席の中、シルヴァは目を凝らして当たりの様子を見る。出入り口のほうを見たとき、扉の前に立つ黒い影が見えた。

「ナイトメア!!」

 黒い影――ナイトメアはシルヴァの叫びに反応することなく、中央の通路を駆け抜けてステージへと走り出す。シルヴァは混乱する客たちの合間を抜けてナイトメアに向かおうとしたが、上手く前に進めない。

[非常事態が発生しました。ご来客の皆様は、速やかに避難してください。繰り返しお伝えします。非常事態が発生しました――]

 ステージ館内に響く放送の声に、客の混乱は余計に悪化する。視界が悪い客たちは自分たちの記憶を辿って、出入り口へと進みだす。その波に逆らおうとするシルヴァだったが、数に押されてしまってナイトメアの元に向かえない。

「くそっ! どけ!! ナイトメアが!!」

[ご来客の皆様は、速やかに避難してください。非常事態が発生しました、皆様、速やかに避難してください]

「……、この声は……!」

 その放送が耳に届いたシルヴァは、はっと目を開いた。穏やかな青年の声は、間違いなくシルヴァが知っている人物――ジールのものだった。

「シルヴァ」

 腕をつかまれ静かな声に呼ばれたシルヴァは、そのまま腕を引かれて人の波と同じ方向に進んだ。

「レイラ?!」

「行こう、シルヴァ。ここは、危険」

「だが、あそこにナイトメアが!!」

「シルヴァ」

 立ち止まったシルヴァの腕を、レイラは強く掴んだ。それは、何が何でも行かせないという強いレイラの意思だった。

「私は、シルヴァを守る」

「……レイラ」

「シルヴァくん! こっちだ!!」

 出入り口のほうから、ヒロキがシルヴァを呼びかける。シルヴァはステージを振り返ったが、人影でステージの様子が見えなくなっていた。シルヴァは苦い表情をして、そのままステージに背を向けてその場を去った。

 

 

 

 

 

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