03
女は逃げていた。
「た、たすけ……! 助けて!!」
女の叫び声は雨の音に掻き消されて、辺りには響かない。雨で足元が滑りやすくなっていたせいで、女はそのまま転ぶ。
「きゃあ!!」
ぐしゃ、と泥と水が跳ねる音がした。女は立ち上がろうとしたが、体を支える腕に力が入らない。
「誰か、誰か……!」
「誰を探しているのかしら?」
その時、女の耳に声が届いた。びくり、と肩を震わせて振り向くと、そこには、赤いスーツを着た黒い長髪の女が立っていた。
「貴女の大切な人? ダメよ、彼、人間でしょう?」
「あっ……あぁっ……!」
くすり、と笑う赤いスーツの女。口元に浮かぶ笑みは、やけに美しい。
「私はずっと言っているのに。私たちと彼らじゃ、存在が違いすぎる。同じ幸せの天秤には乗れないのよ?」
そして、赤いスーツの女は、倒れこんでいる女に向かって右の掌を向ける。そこから、黒い魔法陣が表れた。
「い、いや……!」
「安心して。これで、貴女も幸せになれるわ。よかったわね」
赤いスーツの女の笑みは、心からの祝福の笑み。しかし、それを目の当たりにしている女は、目に大粒の涙を溜めて体を震わせている。
「待て」
その時、男の声が聞こえてきた。雨の音に消えそうな声だったが、はっきりと赤いスーツの女の耳には届いていた。
「……龍」
赤いスーツの女が振り向いて見つめる先には、黒いコートの男――リュウが立っていた。眉間に皺を深く寄せ、赤いスーツの女を睨んでいる。
「久しぶりね、龍。やっと来てくれたのね?」
「……粒泪」
リュウは低い声で、言う。赤いスーツの女――粒泪はにっこりと楽しそうに微笑んだ。
「そう呼ばれるのも久しぶりだわ。最近はずっと“人形使い”なんて呼ばれていたから」
「また、同じことを繰り返すのか」
楽しそうな泪の言葉に対して、リュウは低い声のまま。怒りを隠しきれないリュウの声を聞いても、泪は微笑んでいる。
「それは私が言いたい台詞だわ。何度も何度も教えているのに、皆わかってくれないもの」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいないわ。私、いつも真剣だから」
泪の言葉を聞いたリュウは、たん、と跳躍して泪のもとに走り出した。ロッドを大きく振り、叫ぶ。
「魔術展開!!」
瞬間、ロッドから黒い光が生じ、それが刃となった。リュウの持つロッドは、鎌の形となる。
「あらあら、気が短いのね」
リュウが泪の首に目掛けて鎌を振った瞬間、泪の右手はリュウの鎌の刃を受け止めていた。
「何?!」
「悪いけど、今は貴方の相手をする暇はないのよ」
刃と右手の間に生じている黒い魔法陣。いつの間に展開したかわからなかったリュウは、その光景を大きく開いた目で見ていた。
「また、今度ね」
泪が言った瞬間、泪の足元に大きな魔法陣が展開される。
「しまった……!」
直後、リュウの全身に強い衝撃が走る。どんっ、という音と同時にリュウの体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「粒、泪……!」
リュウは赤いスーツの泪に向かって手を伸ばす。が、体は動かない。リュウの身体の下には、泪が展開していた魔法陣が広がっている。全身に、強い重力をかけられているかのようで、身体の動きは鈍ってしまった。そんなリュウを横目で見ながら、泪はゆっくりと女に近づいていた。女は歯を食いしばり、泪に向かって両手の掌をむけていた。赤い魔法陣が、光っている。
「これで、終わりだ……“人形使い”」
泪に向かって炎の球が放たれた。爆発音が響いたあと、周囲は水蒸気で霧がかかった様に視界が悪くなっていた。
「……あら、この程度?」
女の目が、恐怖で見開かれる。目の前には、傷一つない粒泪の姿があった。
「貴女に、本当の幸せを教えてあげるわ」
「……やめろ」
リュウは、搾り出すような声で止める。が、その声は泪には届かない。
「やめろ……、やめ、……やめろ……!」
黒い魔法陣が、女の目の前に展開される。それは、リュウに出したもの以上に高度なものだった。
「やめろ!!」
ざく、ざくざくざく、ぐしゃ。
「……あ、あぁ……」
雨の水に混ざって、赤い水が流れる。リュウの倒れるそばまでも、その赤い水は流れていた。リュウは、その光景を見て、言葉にならない声を上げるしかなかった。そこでようやくリュウの声に気付いたのか、泪は振り向いた。
倒れているリュウを見下しながら、泪は微笑んでいた。
「貴方なら、わかってくれるでしょう? ねえ、龍?」
そう言って、泪はふっと姿を消した。
「あ……あぁ、あ……! ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
リュウの叫びは、雨の音と共に響く。俯くリュウの顔から流れていたのは、雨の粒だけではなかった。
「……まさか、こんな早くに遭遇するとはな」
「そうですね。まあ、何時あってもおかしくない状況だったとは思いますけど」
場所は魔導管理局の検査室。検査台に横たわるリュウを、ガラス越しにデュオとセイレン、そしてビィが見つめていた。苦々しい表情で見つめるデュオの隣で、セイレンも重々しく言った。
「ビィの連絡が早くて助かった。あのまま放置していたら、まともな状態じゃなかっただろうからな」
デュオは隣に立つビィを見下ろしながら言う。
数時間前、デュオのもとに緊急連絡が入った。
「マスターの意識がありません。魔力波動、脈拍に乱れはありませんが、呼吸は通常時よりも弱くなっています。体温の低下も認められます。医術的処置の適応と考えられます。すぐに救護班の準備をお願いします」
突然の言葉に意味がわからず、デュオは慌ててリュウの居場所を特定し、現地に向かった。
その現場を見て、デュオは言葉を失った。
雨で流れていたが、あたりには血が散乱していた。倒れている女は顔以外を切り刻まれていた。ここ最近起きている事件と同じような殺害方法だったが、そのすぐそばに倒れていたのはドールではなく、魔導士――リュウだった。
そこでビィは、雨でずぶ濡れになりながらも、地面に膝をついてリュウの体の下に魔法陣を展開させていた。淡い光がリュウを包んでいるが、リュウが目覚める様子はない。
「デュオ司令官、治療系の魔術の効果が見られません。私は、どうすればよいでしょうか」
デュオを見上げるビィの顔は雨で濡れていて、まるで頬から大粒の涙をぼろぼろと出しているようだった。しかし、ドールには感情は無い。泣く、ということも知らない。
「私は、どうすればよいのでしょうか」
ざあざあ、と雨は降り続けていた。デュオは手配させていた救護班にリュウを運ばせ、ビィと共に検査室へと向かった。
それから検査を終えたリュウは、救護室のベッドで横になっている。今も意識は安定しておらず、目は閉ざされたままだった。そして、ビィはデュオとセイレンと共に第三隊の司令室にいた。
「マスターの状態は、どのようになっているのでしょうか。外傷もなく、生命維持機能にも問題は見られませんでした。魔力波動も安定しています。私のデータの中では、このような状態に陥る理由が見つかりません」
「簡単に言うと、精神的ショック、ってところかしら。あの状況はリュウにとって最悪の状況だから」
セイレンがビィの問いに答えるように言う。しかし、ビィはセイレンをじっと見つめるだけで、まだ言葉を求めているようだった。
「……ビィも知る必要があるだろうな。リュウのバディで、一番近い存在だから」
「私の知り得ないマスターの情報のこと、ですか」
「ああ。多分、契約魔術だけでは知るはずもないことだろう」
そう言って、デュオは本棚からファイルを取り出す。分厚いファイルを広げ、その中からある書類を取り出した。