02
「……スター、マスター」
「え」
ビィに声をかけられて、リュウはぼんやりしていた意識を覚醒させた。視界の中に、自分を見上げる赤髪の少年が入っている。
「……ロード?」
「はい」
「悪い、何の話だった? 聞き逃していた」
リュウは頭をガリガリと掻きながら、赤髪の少年――ロードに訊きなおす。ロードは少しだけ不安げな表情を浮かべたまま、リュウにもう一度言った。
「来週の実習の予定表、提出しに来ました」
そう言って、ロードはリュウに一枚の紙を渡す。
現在、リュウは魔術指導訓練所の学生の実習を受け持っている。最初は慣れなかった実習担当だったが、今は学生たちに魔術の指導を行えるほど板についていた。
しかし、その日のリュウはいつもと違っていた。
「……ああ、わかった。ただ、いつも言ってるが」
「指令がいつ入るかわからないから、そのときは臨機応変に、ですよね。わかってます」
「それならいい。他に用件は?」
「あ、えっと」
いつもと違う、冷たい口調。何か自分の言い方に問題があったのだろうか、と考えるロードの表情を読み取り、リュウは小さく息を吐き出した。
「……言い方が悪かったな」
「え?」
「俺からは特に何もない。お前から他に連絡はあるか?」
「い、いえ。ありません」
「そうか」
リュウはロードに背を向けて、すたすたと歩き始めた。その背中をロードだけではなく、ビィもじっと見つめていた。リュウについて行かないことを不思議に思いながらも、ロードはビィに尋ねた。
「あの、ビィさん」
「はい」
「リュウさん、何かあったんですか? なんだか、いつもと様子が違ったようなんですけど……」
「昨晩、睡眠を十分とられていなかったようです。私が待機に入っている間も、覚醒状態だったと考えられます」
「じゃあ、寝不足?」
しかし、リュウが寝不足なだけであれほど態度を変えるような人間とも思えなかったロードは首をかしげる。
「……夢」
「え?」
ビィの口から発せられた意外な言葉に、ロードは聞き返した。
「マスターは、夢を見たと仰っていました。ロードさん」
「あっ、は、はい!」
名前を呼ばれたロードは顔を少し赤らめながらビィに大声で返事をする。
「『嫌な記憶』は、除去することが可能ですか?」
「……え?」
「マスターの夢には『嫌な記憶』が関係しています。それを除去すれば、マスターは安定した睡眠が得られると考えられます」
「嫌な、記憶……」
十四年間生きていて、嫌だと思うことはあった。しかしそれは、遅くても三日すれば忘れられるようなものしか経験したことのないロードにとって、夢にまで出てくるようなものは想像もできなかった。ロードが眉間に皺を寄せて真剣に考えていたその時。
「ビィ、何をしている」
リュウの鋭い声。その声色には、いつもと違う何かが含まれていた。
「ロードさん、思考してくださりありがとうございます。それでは、失礼します」
いつもと変わらぬ無表情のまま、ビィはロードにそう言ってリュウのもとへと去った。ロードは「あっ」と小さく声を上げて呼び止めようとしたが、向こうに見えたリュウの表情を見て何もいえなくなった。
今まで見たことのないほど暗い、黒の瞳。
リュウはビィが自分のもとに来たことを確認するとロードに背を向けて歩き始めた。
「……リュウ先生、どうしたんだ……?」
悪い夢を見るのは、いつも、何かの前兆だった。
一日の仕事を終え、リュウはベッドに倒れこんだ。ロードから渡された来週の実習予定に軽く目を通そうと思ったが、読む気がしなかった。
「マスター、どうされましたか」
ビィが、リュウの後ろから声をかけた。異変を見せているつもりはなかったリュウにとって、ビィがそのように問う理由がわからず、ゆっくりと体を起こしてビィの方を見た。
「何でそんな質問をする?」
「マスターの行動は通常時と異なります」
「異常だ、って言いたいのか?」
「明確な異常ではありません。しかし、通常時と異なることは確かです」
何かが違う。ビィが言いたいことはわかっていたが、リュウは不思議に思っていた。ビィ――ドールが何故ここまで自分の異常を気にしているのか、と。
「そんなに俺の魔力波動は荒れてるか?」
「いいえ」
予想外の答えに、リュウは目を開いた。
「私はマスターの表情、脈拍、発汗量、そして行動で通常時と異なると判断しました。魔力波動に関しては、一切の乱れは見られません」
「……そうか」
その言葉を聞いて、リュウは心の奥底で安心していた。そして、再びベッドに倒れこんだ。
「マスター」
「指令か何かあったら叩き起こしていいから、それまでは寝かせてくれ」
「了解しました」
リュウはうとうととまぶたを揺らす。視界が白と黒に揺れて、そのまま黒に染まった。
それから、どれだけ経っただろうか。しばらく、安定していた水面に、まるで水滴が一滴落ちたかのような乱れが生じた。
――龍
はっと、リュウは目を開き、ベッドから起き上がった。突然のリュウの行動に対して、ビィは動じた様子を見せず無表情のままでリュウを見ていた。
「マスター、どうされましたか」
「……あの女が」
小さく開かれた口から、リュウは少しの音でかき消されそうな声で呟いた。それから、リュウはベッドから飛び降り、黒いコートを掴んで部屋を出た。
「マスター」
リュウの行動を予測することが出来なかったビィは、リュウが完全に部屋を出た後、そのあとを追いかけた。リュウは、ビィがついて来ていることなど気付いていないようで、全力で廊下を走っている。
「マスター」
ビィが呼びかけるが、リュウは止まらない。その勢いのまま、リュウは管理局を出て、外に出て行った。
外は土砂降りの雨だった。