五十三

 

 

「……そう思うのなら、ワタシを倒せばいいだろう」

 そう言い放ったナナコの表情は、今まで亜華音が見たことのないような――全く感情の含まれていないものだった。言葉から感じられるのは、冷たさだけ。今まで会話していた人物とは別人のような豹変の仕方だった。

「ナナコ、先輩……」

「ワタシはね、時雨を手に入れたいと思っている。そのために、キミも手に入れたいと思っているよ」

 ナナコは声のトーンを変えぬまま、亜華音に向かって手を伸ばす。ナナコの手が頬に触れた瞬間、亜華音はびくりと肩を震わせた。怖い、という感情が亜華音の背筋に冷たいものを走らせる。

「ただ、キミがワタシのものになりたくない、と言うのなら、キミは邪魔な存在であるだけだ」

「……わ、私は……」

「なんて、ね」

 ふっと、ナナコは鼻で笑う。亜華音の頬から手を離し、ナナコはにやりと笑いながら腕を組んだ。

「今の表情、良かったよ亜華音くん。怯える姿も、可愛いね」

「なっ、何言って……」

 亜華音が戸惑う姿を見ながら、ナナコはくすくすと楽しそうに笑う。そして笑いを収めたナナコはひとつ息を吐き出して、亜華音に言った。

「ワタシは、いつでもキミを待っているよ、亜華音くん。キミが、ワタシのところに来てくれることを、ね」

「……私は、『レッドムーン』に入るつもりはありません。それに正直、……美鳥のこと、許せないから」

 亜華音は下ろされている手をぎゅっと握り、ナナコを睨んだ。

「私が邪魔なら、先輩が私を倒しに来てください。その時は、私、戦います」

「……そうだね。いずれ、そんな日も来るかもしれないからね」

 冗談半分のように、ナナコは笑いながら言う。そんなナナコの様子に苛立ちを覚えながらも亜華音は美術準備室を出た。亜華音が去っていった扉を見つめていたナナコの顔から、笑みが消えた。

「……いずれ、キミを倒す日が来るよ。キミが時雨を守り続ける、と言うのならね……」

 

 とぼとぼと、亜華音は階段を降りていた。

「……美鳥」

 もしかしたら、ナナコは『レッドムーン』の一員としての美鳥に命令していただけなのかもしれない。ナナコへの思いを知らないで、邪魔な亜華音を消すために美鳥に行かせたのかもしれない。それなら、美鳥の思いは少しだけでも救われるんじゃないか、と亜華音は思っていた。

「なのに……」

 ナナコは、美鳥の気持ちを利用していた。美鳥はそもそも利用されていたことすら今は忘れている。

 亜華音の胸の中に、ずっしりと重いものが残った。どこにも吐き出せないような、そんな重くもやもやとしたもの。今まで感じたことのないようなものに、亜華音はどう対処すればいいかわからなくなっていた。

「……あ」

 足を止めて、ふと視線を変えると図書室の扉が見えた。

 

「……亜華音」

 図書室の扉を開くと、いつもと同じ窓側に、時雨の姿があった。時雨は亜華音の姿を認めると、一瞬だけ目を大きく開いた。しかし、すぐに表情をいつものような穏やかな笑みを浮かべた。

「どうしたの、亜華音」

「時雨、さん」

 時雨の名を呼ぶ亜華音の声は、いつもより小さく、少しだけ震えていた。時雨がそれに気付いた直後、亜華音は時雨の元に駆け寄っていた。時雨の胸の辺りにしがみつき、声と同じように、体を小さく震わせている。

「……私、わからないんです」

「わからない?」

「こうやって戦うことが、正しいのか」

 亜華音の言葉に、時雨の中で息が詰まるような感覚が生じた。

「時雨さんを守りたい。時雨さんを守るためなら戦う。でも、……こうやって戦いを続けると、胸になにか、苦しいものが残る気がするんです」

 それは、亜華音が今、抱いている感覚。胸の中に残るそれが何か、亜華音には、わからない。

「……亜華音」

 名前を呼ばれた亜華音は、顔をあげる。時雨は亜華音の両肩に手を軽く乗せ、そして、亜華音を体から引き離した。

「時雨、さん……?」

 時雨は亜華音に背を向け、顔を見せない。亜華音はただ時雨の背中を見ることしか出来ない。

「もしも、貴女が今、していることが正しいと思えないのなら」

 わずかに見える時雨の横顔は、夕暮れに染まって、赤い。まるで、アカツキの中にいるときのように、赤く染まっている。無感情な赤い色は、時雨の感情を押しつぶしている。

「私を消して」

 

 

 

  

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