五十四

 

 

 亜華音は、ただ、守りたいと思っていた。

 自分を助けてくれたその人を、自分を守ってくれたその人を、自分の名を素敵と言ったその人を。

 亜華音は、ただ、守りたいと思っていた。

「私を消して」

 守りたいと思っていたその人は、亜華音にその瞳を見せずに、ただ一言そう言った。

 

「……え?」

 聞き取れなかったはずが無い。それでも亜華音は、聞き返していた。

「時雨、さん?」

「ねえ、亜華音」

 時雨が振り向くと、長い髪がふわりと揺れる。時雨は微笑んでいるはずなのに、亜華音にはそれが笑みに見えなかった。

「どうして、貴女は私と出会えたのかしら?」

「え?」

「貴女が『図書室の亡霊』に出会いたいと望んだからなのかしら。それとも、もっと別のものがあるのかしら?」

 もっと別のもの。時雨の言葉を、亜華音は理解できずにいた。

「時雨さん……?」

「私と出会うことで、貴女は別の貴女になれた。私は、それが」

 時雨の言葉が、止まる。

「…………」

 沈黙が、続いた。

 時雨はまた髪を揺らして、亜華音から視線をそらした。さらさらと揺れる黒い髪は、時雨の表情を隠す。

「あの、時雨さ……」

「ごめんなさい、亜華音」

 亜華音の声を遮るように時雨は言った。

「今のことは、忘れて。貴女を混乱させてしまったわね」

「えっと、あの」

「もう、下校時間じゃないの? 遅くなると、怒られるわよ」

 亜華音に背を向けて、時雨は本棚の奥に向かって歩き始める。一人で言葉を続ける時雨に、亜華音は必死で声をかけようとするが、届かない。

「あのっ」

 亜華音は時雨を小走りで追いかける。本棚の一番奥、薄暗い角に歩いた時雨の肩を掴もうと手を伸ばした。

「時雨さん!」

 しかし、亜華音の手は空を掴んだだけだった。そこに、既に時雨の姿は、ない。

「……時雨さん」

――自分が好きな人の望みが、傷つけることだったら……。亜華音くん、キミは、どうする?

 いつかナナコに言われた言葉が、頭の中で響く。

――何故貴女は傷つくことを望む? 終わりを、望む……?

 それは、沙弥が時雨に言っていた言葉。涙を零しながら、時雨への思いを言う沙弥の姿が亜華音の脳裏に浮かぶ。

――私を消して

 そして、時雨の言葉。亜華音は、その言葉にどんな意味があるかわからなかった。時雨の顔は、全く見えなかった。それと、時雨の感情も。

「……わかんないよ」

 亜華音の頬に、冷たいものが落ちる。

「私、どうして、こんなに苦しいの……?」

 胸が、痛い。それを抑えようと胸のシャツを強く掴むが、それでも痛みは引かない。亜華音はぎゅっと目を閉じて、小さく首を振った。

「わかんないよ……!」

 

 いつから終わりを望んだのだろうか。

 いつから終わりを拒んだのだろうか。

 

「……もう、わからないのよ」

 顔をあげて空を見ると、赤い月。何度見ても変わらないその光景を、時雨はずっと見てきた。

 何度も何度も、繰り返した。

 今していることが正しいかわからないまま。

 今していることが間違っているかわからないまま。

 何度も何度も、繰り返した。

 疑問に思うことも捨てた。ただ消失を望むだけ。答えを求めることなど、無駄だと思っていたから。

――答えって、絶対見つかるものだと思います。答えを探すことを止めたら、なんだかもったいない気が、するんです

 それは、自分に向けられた言葉ではない。けれど、まるで自分に向けられたような気がした。

「……私、は」

 答えを見つけたはずなのに、答えを捨てたはずなのに。それなのに、まだ、探し続けている自分がいた。

「……わからないのよ、私には」

 時雨の黒い髪が、ふわりと揺れる。

 

 

 

  

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