第五十一章
いつから、終わりを望んだのだろうか。
いつから、終わりを拒んだのだろうか。
「……違う」
赤い月の下、時雨は自分の肩をしっかりと掴んで、自分自身を抱きしめるように力を込めた。苦しげに呟いた表情もまた息苦しそうなもので、目は強く閉ざされている。
「私は、終わりたい……」
――終わるはずが、無いでしょう?
時雨の耳に、声が届く。その声は紛れもなく、自分自身のもの。
――終わるはずが無い。だって、貴女は終わりなど望んでいないのだから
「違う」
何度も繰り返す自問自答のような行為に、時雨は飽き飽きしていた。それでも繰り返すのは、自分の過ちを認めたくないのか、自分の過ちを認めているのか。
――私は、変わりたい
その声に、はっと時雨は目を開いた。代わりに口は閉ざされ、言葉を発することができない――言葉を発することを拒んだ。
「……」
ふっと、時雨の全身は緊張が解けたかのように軽くなった。時雨はゆっくりと自分の肩から手を放して、小さく息を吐き出した。
「……私は、終わりたいの。もう、なにもかも捨てて、終わりたい……ただ、それだけなの」
誰かに向けたものではない言葉を、時雨は言った。赤い月の下にいるのは、彼女一人だけだった。
「いい記事じゃないか、透」
ぱさ、と紙が捲れる音がした後、透の耳に楽しそうな芳夜の声が入ってきた。芳夜の楽しそうな声に対して、透の表情はいつもの無表情の中に、わずかな苛立ちのようなものが見える。
「これで暁翔学園の名も広まったし、弓道部によい成績を残すこともできたし、そしてきみの人気も急上昇。いいこと尽くしだね」
「最後のものは余計だな」
透はばっさりと言い捨てる。それから、テーブルの上に置いてある湯飲みの中身をぐい、と飲んだ。
「そう? でもほら、この新聞にきみの写真特集まで組まれてるじゃないか」
芳夜は持っていた学園新聞を広げ、透のほうに向けた。芳夜のほうを見ていない透の表情が、先ほどよりも険しくなる。
「……私は認めていない」
「え? ああ、でも、ここに『学園自治組織公認』って書いているよ?」
「……お前が勝手に公認しただけだろうが」
苛立ちしか含まれていない、刺々しい声。それを受けても、芳夜はにこにこと笑ったままだった。
「透、きみも学園自治組織の一員だろう? こういう風に学生たちの気持ちを盛り上げる、というのもきみの重大な役割だ」
「私はこんなことのために自治組織になったのではない」
吐き捨てるように、透は言った。その発言に、芳夜の顔から笑みが消えた。それに気付いていない透は、持っていた湯飲みをテーブルに置いて、立ち上がった。
「……透」
「部屋に戻る。もう、放課後も終わるだろう」
そして透は芳夜に背を向けて、扉の前に立った。
「芳夜。私がここにいる理由はお前が一番わかっているはずだ。私は、私の目的を果たすために、ここにいるだけだ」
「……ああ、そうだったね」
芳夜は新聞を丁寧に閉じ、テーブルの上に置いた。ぱさ、と紙が触れ合って生じた、乾いた音が、やけに部屋に響く。
「気をつけて帰るんだよ、透」
「ああ」
芳夜の言葉に頷いて、透は部屋を出た。扉が閉まるのを見て、芳夜は小さく息を吐き出した。
「あの子、もう貴女のことを忘れているわよ」
夕暮れの美術準備室。窓に寄りかかるように立って、文庫本を読んでいる沙弥が口を開いた。いつもの席についているナナコは爪を弄っていた手を止めた。
「……美鳥のこと、かい?」
誰のことか、知っているはずなのにわざわざ尋ねる。ナナコは視線を、動きを止めた手に向けたまま、答えを待った。
「それ以外に、誰がいると言うの」
「それもそうだね。でも、どうしてキミが美鳥のことを気にするのかな?」
「貴女、寂しそうよ」
沙弥の発言に、ナナコはようやく沙弥のほうを見た。その目は、大きく開かれている。
「……ワタシ、が?」
意味がわからない、というようなナナコの顔を見ても、沙弥は一切感情を表に出さない。いつもと変わらぬ、愁いを帯びたような、そんな冷たい表情のままだった。それを見て、ナナコは「ああ」と納得したような声を上げた。
「そうだね、寂しいよ。学園反乱組織から貴重なメンバーが一人、減ってしまったのだから」
「……」
「ワタシに、それ以上の感情があると思ったのかな、沙弥」
名を呼ぶナナコの口調は、やけに早口だった。それに気付いていても、沙弥は何も言わず、伏し目がちに文庫本を読んでいる。余裕の無さに気付いていないのは、ナナコだけ。
「ワタシにとって、彼女は反乱組織のメンバーであって、それ以上でも以下でもない。キミだって、そうだよ」
そう言って、ナナコはゆっくりと立ち上がり、沙弥の隣に立つ。
「キミも、ただワタシと同じ目的でここにいる、それだけの存在だ。キミにとっても、ワタシは同じような存在だろう?」
ナナコは、そっと沙弥の頬に触れる。沙弥は視線だけナナコに向けたが、何も言わない。ただ、その表情の端に不愉快そうな色が映っていた。