五十

 

 

「美鳥、昨日は本当にごめん!!」

 翌日の朝。教室に入ってきた美鳥に、柚季は深い礼をして謝罪を入れた。突然のことに、美鳥は驚いたように目を開き、「えっ……」と声を上げた。

「アタシ、美鳥に対して、本当にひどいこと言ったよね……。勝手に美鳥のこと、あんなふうに言って……」

「……いいよ、柚季。あたし、気にしてないから」

 顔をあげて言う柚季に美鳥は穏やかに笑い、柚季の肩に手を乗せた。

「あたしもごめんね。柚季にも、小春にも、変な態度取っちゃったし」

「美鳥……」

 美鳥の言葉を聞いた瞬間、柚季の目にうるうると涙が溜まり始めた。美鳥は制服のポケットからハンカチを取り出し、柚季の目元に当てた。小春もティッシュを取り出し、柚季に渡している。

「ほら、柚季泣かないの。美鳥、私もごめんね」

「いいよ、大丈夫。あー、柚季! 鼻水出てるってー!!」

「ふえぇ……、美鳥ぃー!!」

「ちょっと、制服濡れる! 濡れるから!!」

 それはいつもと同じ光景だった。美鳥の後ろから教室に入った亜華音は、微笑みながらその光景を見ていた。

 学園中に広まっていた美鳥の噂は、いつの間にか誰も口にしなくなっていた。日々何かの話題がある学園生活の中で、誰かの過去の問題などすぐに流れてしまうのだろうか、と亜華音は思いながらも、昨日の芳夜の言葉を思い出していた。

 アカツキで負った傷は残らない。代わりに、記憶が消える。それは、美鳥本人だけでなく周囲の人間にも関わるのだろう。

「……だから」

 だからこそ、芳夜はあのとき、ひどく悲しそうな顔をしていたのだろう。だからこそ、美鳥のことを心配していたのだろう。そう考えると、亜華音は芳夜の中に秘められた美鳥への思いがどれほどのものかわからなくなった。

「亜華音? どうしたのよ、そんなぼけーっとして」

 思考していた亜華音の視界に、柚季の顔が入ってくる。目と鼻の先に現れた柚季に一瞬驚きながら、亜華音は「何でもない」と笑いながら答えた。

「そうよねえ。亜華音は普段からぼけーっとしてるもんね」

「ちょっと? 美鳥さん、そういう事を言うのは良くないんじゃないの?」

「え? 本当のことを言っただけじゃない」

「こらー!!」

 亜華音は美鳥の肩を両手で掴み、そのまま負ぶさるように身体を寄りかからせる。バランスを崩しそうになった美鳥だったが、亜華音を背負い、「降りなさいよー!」と笑った。

「……よかったね、亜華音も美鳥も元通りで」

「本当に、心配ばっかりかけるんだから、あの二人」

 亜華音と美鳥を見ながら、小春は安心したように呟く。隣に立つ柚季も両手を腰に当てて、少し偉そうに、それでも安心したように言った。

 

『今、時間ある?』

 そんなメールが亜華音のもとに来たのは、その日の午後九時を回った頃。美鳥から来た唐突なメールに、亜華音は不思議に思いながら返信を送る。

『あるよー。どうしたの?』

『今から部屋に来て』

 数分も立たないうちに来た返信に少し驚きながら、亜華音は美鳥の部屋に向かった。

「美鳥、入るよ」

 扉を開けて美鳥の部屋に入ると、美鳥がベッドに座って手を振っていた。

「ごめんねー、急に呼んじゃって」

「別に良いよ。それで、どうしたの?」

 亜華音は美鳥の隣に座り、笑いながら尋ねる。美鳥は「うん……」と返事して、視線を膝の上に置いている手に落とした。言葉を選んでいるのだろうか、手をもじもじと動かしている。そして手が止まり、美鳥はようやく口を開いた。

「亜華音も、聞いたんだよね。あたしの、中学の時の、噂とか」

「……うん」

――美鳥の学年でひっどいいじめがあったらしいの

――美鳥もそのいじめグループの一員だったとか

 いつか柚季が言っていた噂。そして亜華音がアカツキで見た、美鳥の過去の光景。きっと、美鳥は中学時代、ずっとあの人形のような表情を浮かべていたのだろう、と思うと、亜華音は胸が苦しくなった。

「あたし、親友がいじめられてるのに止めなかったんだ」

 顔をあげて、遠くを見るようにして美鳥は言った。

「最初の頃は助けよう、助けようって思ってたけど、少しずついじめっ子たちの方に寄ってた。助けようって思ってたのに、自分はいじめられたくないって思ってた」

「うん」

「親友がね、あたしに向かって助けてって視線を向けてきたの。でも、あたしは、怖くて助けられなかった。いじめグループのリーダーみたいな子と合わせた。その瞬間、親友が言ったの。『どうして』、って」

――美鳥、どうして

 その光景を思い出すように、美鳥はゆっくりと目を閉じた。今まで目を向けることの出来なかった過去に、今なら目を向けることが出来る気がしていた。

「ごめんね、急に変な話して。でも、亜華音には本当のこと、知って欲しいって思って」

「ううん。私、嬉しいよ。美鳥が、自分で教えてくれて」

 そう言って、亜華音は美鳥の膝の上にあった手に、自分の手を重ねた。互いに触れ合う手は、温かい。

「ねえ、美鳥」

「……うん」

「その、親友には謝れた?」

「……そのことで、お願いがあって呼んだの」

 予想していなかった言葉に、亜華音は驚いた。自分に何かできることがあるのか、と美鳥の顔を見ると、美鳥は笑っていた。

「今からその子に電話したいんだ。でも、一人だと怖くて……、だから」

「いいよ。寂しがり屋の美鳥のためだ、そばにいてあげる」

 そう言って、亜華音はぎゅっと美鳥を抱きしめた。美鳥は顔を赤くさせて、「もう、上からなんだから」と少し怒ったように言いながらも、嬉しそうにしていた。そして亜華音が離れると、美鳥は携帯電話を取り出して操作を始めた。

「……かける、ね」

 ぴ、とボタンを押すと電話の待機音が鳴る。それからぶつっ、と言う音がして電話が繋がった。

[もしもし]

「もしもし……あの、佐木、み」

[美鳥?!]

 直接電話を聞いていない亜華音の耳にも、大きな声が響いた。美鳥は一瞬電話を耳元から離し、それからゆっくりと近づけた。

「き、希色?」

[うん! うわ、どうしよう! 久しぶり!!]

 久しぶりに聞く友人の声は、今までの記憶の中にあったように明るく元気で、そして少し子どもっぽいものだった。

「うん……久しぶり。あの、希色、実はずっと言いたいことがあって……」

[うん、うん! 私もいろいろ話したくって]

「違うの! そうじゃなくって、ずっと、……謝りたかったの」

 そう言って、美鳥は大きく息を吸った。

「あの時、希色を裏切るようなことして、ごめん! それに、ずっと連絡取らなくって、謝らなくって、本当にごめんなさい!!」

[……美鳥。私も、ごめんね。美鳥がどんな状況かわかってるのに、あんな責めるようなこと、言って]

 希色の言葉を聞いて、美鳥の目に涙が溜まる。

「あ、あたしが、悪かったのに……、なんでそんなこと言う、か、なあ……!」

[ああ、もう、泣かないで。私だって、連絡すれば、良かったんだから……]

 電話の向こうから、鼻のすする音が聞こえた。きっと希色も自分と同じように泣いているのだろう、と美鳥が思うと口元に笑みが浮かんだ。

[ねえ、美鳥。今度、会わない?]

「……え?」

[さっきも言ったでしょ? いろいろ、話したいって]

「……うん、いいよ」

 それからしばらく、美鳥と希色は予定を立てる。いつ、どこで会う、何をする、という会話はいつも会っている友人同士の会話と同じものだった。それを聞きながら、亜華音は美鳥の肩に寄りかかる。

「うん、……それじゃあ、またね」

 そして美鳥は携帯電話のボタンを押して通話を終了させた。しばらく美鳥は何も言わずに携帯電話の画面を見つめていたが、一つ息を吐き出した後、肩に寄りかかっていた亜華音を抱きしめた。

「亜華音……! 言えたよ……!」

「うん、言えたね」

「ずっと、ずっと言えなかったのに、やっと言えた……! 亜華音のおかげだよ……」

「ううん。それは、美鳥ががんばったからだよ」

「……亜華音、ありがとう」

 美鳥が鼻をすすりながら言う。亜華音はそれを聞きながら、ふっと笑っていた。

「美鳥は、変われたんだよ」

 

あたしはもう、あの暗闇――過去の中にはいない。

だってあたしは、変わることが出来たのだから。

だってあたしは、今、生きているのだから。

 

 

  

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