四十九

 

 

 自治会室には、亜華音と芳夜の二人しかいなかった。亜華音が不安げにきょろきょろと首を動かしている姿を見て、芳夜はふっと穏やかに笑って、接客用ソファを手で示した。

「まあ、とりあえず座るといいよ。飲み物は何がいい? コーヒーと紅茶があるけど」

「あっ……、じゃ、じゃあ、紅茶で」

 芳夜の問いに答えると、亜華音はソファにゆっくりと座った。その間、自治会室に設置してあるティーポットにインスタントのティーバッグを入れ、ポットからお湯を出して注いだ。室内に、お湯がティーポットに落ちる音だけが響く。

「亜華音くんは」

 空しく響く音を掻き消すように芳夜が口を開く。亜華音はびく、と肩を震わせ「はいっ」と声を裏返らせながら返事をした。

「そんなに緊張しなくて良いよ。ただ、亜華音くんは紅茶派なのかな、って思って」

「あ、えっと……。コーヒーは苦くて、苦手なんです。だから、ミルクティーとかの方が好きで」

「なるほどね。じゃあ、砂糖は多いほうが良いかな? 何本入れる?」

「じゃ、じゃあ、とりあえず三本で」

 とりあえず? と驚いたように呟く芳夜に、ようやく亜華音の表情が緩んだ。そして、テーブルの上にティーカップとスプーン、シュガースティック三本が置かれた。それから亜華音の向かい側に自分のティーカップを持った芳夜が座る。

「あの……。崎森先輩は、どうして図書室に? 透さんから、私と美鳥のことは関わらない、と聞いたのですが……」

「本当は、わたしが止めるべきだった」

 芳夜は小さくため息を吐いた。視線を亜華音から落として、ティーカップの中にある水面に映る自分の顔を見る。

「佐木くんが、ナナコと何かあったことには気付いていた。だから止めようとしたけれど、わたしには無理だった」

「先輩が、止めようと……?」

「これでも自治組織の人間だからね。学園の生徒がよくない道を進むのを止めるのが、わたしの役目だ。だけど、わたしの言葉は、佐木くんには届かなかった」

「……そう、なんですか」

 亜華音は、自分が本当に何も知らなかったことを痛感した。表情を歪めた亜華音に気付いた芳夜は、亜華音に向かって優しく微笑む。

「けれど、きみなら佐木くんを止められると思っていたよ。まあ、学園自治組織の勘ってやつだね」

「……ぷっ」

 芳夜の少し気の抜けた発言に亜華音はつい笑いを吹きだしてしまった。それを見て、芳夜も笑いを零した。

「さて。それじゃあ、話を本題に戻そう。きみが、知りたいと思っていることについて、わたしの知る限りを説明しよう」

「……お願いします」

「簡単に言うと、佐木くんはアカツキに関する記憶を失った」

「……え?」

 亜華音が驚きの声を上げる。何かの冗談か、と芳夜を見るが、先ほどまでの穏やかな笑みではなく真剣な表情を浮かべていた。冗談を言う、表情ではない。

「アカツキに関する記憶を失った、って」

「そのままの意味だよ。彼女の中にはアカツキで戦ったこと、アカツキで関わった人物、そして時雨のことも忘れている」

「そう、なんですか……」

「けれど、きみと佐木くんはごく普通に話していたね。クラスで元から、仲はよかったのかい?」

「はい。入学式の後に、美鳥から声をかけてくれて……」

 亜華音の言葉を聞くと、芳夜はほっと安堵したように息を吐き出した。

「よかった」

「え?」

「きみと佐木くんが、変わりのない関係を保つことが出来て。もし、アカツキだけの関わりだったら、その記憶は全てなかったことになってしまうからね」

「……そんな」

 全てなかったことになる。それは、美鳥が一番望んでいたことだった。

「そんなこと、本当に」

「まあ、ここから先の話はわたしの仮説なんだけどね」

 と、亜華音が疑問を口にする前に芳夜が小さく手をあげてそれを止めた。

「アカツキでの傷はここに戻れば一切戻らない。けれど、傷が大きかったり魔法を使いすぎたりすると疲労感が生じて、動けなくなるということもある。そして、アカツキで本当に大きなダメージ、それこそ、死んでしまうような傷を負ったとき、代償として記憶を失うんじゃないか、とわたしは考えている」

「どうして……」

「簡単に言うと、アカツキが本来在りえない場所だから、だよ」

 その言葉に、亜華音は一瞬はっと目を開いた。今までごく当たり前のように行っているアカツキだが、芳夜の言うように在りえないことが普通なのである。そしてそれは、時雨も同様だった。

「在りえない場所で負った傷は現実に残らない。代わりに疲れが生じるからね。でも、大きな傷は疲れだけでは代償になれないから、記憶を失う。……まあ、これはわたしの経験から推測したものだけどね」

「先輩の経験?」

 亜華音が芳夜の言葉を繰り返すと、芳夜が苦い笑みを浮かべて頷いた。しまった、と亜華音が口を塞いで、首を振る。

「ご、ごめんなさい! その、えっと……」

「気にしなくてもいいよ。亜華音くんは、優しいんだね」

 穏やかな口調で言う芳夜に、どこか悲しげなものを亜華音は感じた。もしかして、と思ったと同時に口は動いていた。

「先輩も、記憶を無くした人を見たんですか?」

「……うん、そうだよ」

 笑みが、悲しみを確実に帯びた。

「わたしにとって、とても大切な人だった。けれど、結局、わたしとその人はアカツキがなければ関わることはなかったし、親しく関わることもなかった」

「そんな……」

「そんな悲しい顔をしなくていいよ。これは、事実なんだから」

 そう言うと、芳夜は亜華音の頬に手を当てた。そっと触れる芳夜の手には温もりを帯びていた。亜華音の泣きそうな顔を見て、芳夜は笑う。

「亜華音くん。そろそろ寮に戻る時間だよ」

「え?」

 時計を確認すると、確かに時刻は下校時間を示していた。芳夜が手を離すと、亜華音は立ち上がった。

「ありがとうございます、崎森先輩。それじゃあ私、失礼します」

「うん。気をつけてね」

 手を振って芳夜が言うと、亜華音も礼をして自治会室を出た。部屋の中に、ばたん、と扉が閉まる音が響いた。

「……これで、よかったのか」

 誰もいなくなった部屋で芳夜は呟く。それは誰かに対する問いかけだったのかもしれない。しかし、その問いに答える者は、誰もいない。

 

 

  

←四十八章    目次    五十章→