第四十五章
「私も、名前が色の名前なの」
それは、美鳥の中にある一番古い彼女の記憶。初めて出会ったとき、彼女が自己紹介代わりに言ったその言葉は印象的だった。
「ねえ、名前で呼んでもいいかな。私のことも名前で呼んでいいから」
「……本当に?」
彼女が思っていたことは美鳥と同じだった。それでも声をかける勇気がなかった美鳥にとって、彼女から声をかけられたことはとても嬉しいことだった。
「もちろん。よろしくね、美鳥」
「うん、よろしくね……希色」
恥じらいながら名前を呼ぶと、彼女――澤田希色はにっこりと笑って美鳥に向かって手を差し出した。その手を美鳥はしっかりと握った。
澤田希色という人物は、佐木美鳥にとって大切な友人、いや、親友だった。
希色は成績も優秀で運動も得意で、リーダーシップもあり誰にでも好かれるような人物だった。その隣にいる美鳥は、希色の生き生きとした姿を見るのが好きだった。希色と共に何かをすることが好きだった。美鳥にとって澤田希色という親友がいることは誇らしいことでもあったが、同時に自分と彼女は明確に違うというコンプレックスのような妬みもあった。そんな美鳥のマイナスな感情も希色は何事もなかったかのように包み込む。
「私だって、美鳥が羨ましいときあるもん。美鳥は綺麗だし、大人っぽいし。それに比べて私は全然子どもっぽいからさ、隣に並んでるとなんか切なくなっちゃう」
くす、と笑いながら言う希色につられて美鳥も笑う。
誕生日には互いの名前に入っている色の物を贈りあった。
「美鳥に似合うと思うよ、これ」
そう言って希色は美鳥の前髪に緑のピンを留めた。
「やっぱり美鳥は緑って感じがするねー」
「そういう希色も黄色ーって感じするよ?」
「えー、そうかなあ?」
あはは、と笑いあいながらいつもと同じように過ごしていた。
澤田希色という人物は、佐木美鳥にとって大切な親友、だった。
きっかけは、二人が中学校に上がった頃だった。
希色と美鳥の共通の友人である男子生徒と付き合っている女子生徒がいた。男子生徒はあくまで友人として、希色や美鳥と関わっていたが、そのことが女子生徒には不愉快だったらしい。
「迷惑なんだけど、人の彼氏に手を出すの」
女子生徒に言われた美鳥と希色ははっきりと関係を否定した。それで解決する、はずだった。
「……澤田ってさあ、目立つよね」
ぽつり、と誰かが呟いていたのを美鳥は聞いた。それは明らかに敵意を剥き出しとした言葉であり、聞いていた美鳥は全身に悪寒が走った。それから、美鳥は件の女子生徒にやけに声をかけられるようになった。
「ねえ、佐木さん。移動教室、一緒に行かない?」
「ああ……えっと。あたし、希色と行くから」
何気なく断ったはずだった。しかし、女子生徒が通り過ぎる際に舌打ちをしたのが聞こえた。
「……何、今の」
感じ悪い、というような言葉で片づけられない何かがあった。恐怖で震えている美鳥の肩をそっと叩いたのは、希色だった。
「大丈夫、美鳥?」
「……希色」
「あんまり気にしない方が良いよ。多分、まだあの子気にしてるみたいだから」
苦い表情を浮かべながら言う希色に美鳥は安心していた。
「大丈夫だよ。希色が、居てくれるから」
それからしばらくして、事態は一変した。
今まで希色に好意的に接していたクラスの雰囲気はがらりと変わって、敵意を剥き出しにするようなものとなる。異変に気付いた美鳥は、適度に関わっていた女子生徒に話を聞くことにした。
「澤田が人の男に手、出したからでしょ」
「そんなこと、してないって」
「これがそう言えるの?」
そう言って女子生徒が携帯電話を操作して、ある画像を見せる。それは、とある日の下校中の風景で、希色の隣には友人の男子生徒が並んで歩いていた。まだ引きずっているのか、と美鳥は女子生徒に向かって叫ぶ。
「違うって、言ってるじゃん! いい加減に」
「ねえ、佐木さん。佐木さんなら、今の状況わかるんじゃないのかな?」
女子生徒はただ静かに言った。
「……どういう、こと」
「どういう、って解かるでしょ? 今のクラスの状況とかさ。澤田と付き合ってても、いいことないよ」
女子生徒の周りには、いつも多くの人が男女問わずに居た。きっと彼女もリーダーシップがあって、人を惹きつける何かを持っているのだろう、と美鳥は思った。けれど、それは希色に比べて心地よいものではない。
しかし、
「……」
何も言えなかった。それから、美鳥は希色と一緒に居るよりも、彼女たちと居る時間の方が長くなった。
「ねえ、気持ち悪いと思わない? わざわざ、持ち物を全部同じ色で統一するなんて」
「そうそう。そんなに自分の名前大好きなの、って思っちゃうよねー」
何がきっかけだったのだろうか。
机の上にあった筆箱やノートが落ちて、それを希色が拾っていた。ノートに大きく『消えろ』と落書きされているものや、破られているものもあった。
いつからか、美鳥は希色と関わる時間をほとんど持っていなかった。それに比例するように、希色に対する視線や態度が冷たくなり、そしていじめと取れるような行為が行われ始めた。
希色に関わったら、自分たちが対象になる。だから、誰も希色を助けない。希色もきっと気付いてくれている、と美鳥は言い訳をしながら、女子生徒たちと一緒に居た。
「ねえ、佐木さんもそう思わない?」
答えなければ、今度は、自分が。
「……そう、だね」
直後、希色の手が止まる。ゆっくりと、希色は振り向いて、美鳥を見ていた。大きく目を開き、困惑した希色の姿を、初めて美鳥は見た。
「美鳥、どうして」
掠れた希色の声。震えた希色の声。怯えた希色の声。どれも、美鳥は聞いたことがなかった。
「あたし、は……」
それからしばらくして、美鳥たちの学年は上がり、クラスがえで美鳥と希色は違うクラスになった。今までずっと一緒だった美鳥と希色だったが、クラスがかわってから関わりを一切持たなくなった。それは美鳥からだったのか、希色からだったのかわからなかったが、美鳥はあれから希色がどうなったのか知る由もなかった。
どうして、あの時あたしは助けられなかったのか。
何度も繰り返す自問に、美鳥は一つの答えを見つけていた。
――あたしは、変わりたい。