第四十二章
翌日。
「……美鳥」
ひそひそと教室の中で交わされる小さな声。内容は、亜華音にとって気分のいい物ではなかった。
中学時代、美鳥がいじめグループの一員だった。その噂は、すぐに学園中に広まっていた。そのため、教室の中は美鳥の噂で充満している。
そんな中、美鳥は教室に現れた。
美鳥は冷めた目で教室内を一通り見た後、自分の席についた。誰もが美鳥を避けている中、亜華音は美鳥のそばに寄る。
「美鳥、おはよう」
「……何の用」
亜華音の挨拶に対して、美鳥はかみ合わないような返事をした。視線は亜華音に向けられず、何もない机の上をぼんやりと見るように、少し俯きがちだった。
「昨日、無断欠席だったでしょ? しかも、夜まで部屋から出てこないで。ちゃんと欠課届出さないとだめだよ。あんまりサボっちゃうと、自治組織の先輩にも言われちゃうよ」
「それで、あたしが消えればいいって思ってるわけ?」
鼻で笑いながら言う美鳥の自嘲に、亜華音ははっと目を開いた。「どういうこと……」と小さく開かれた口から零れて、それに答えるように美鳥が笑った。
「聞いたんでしょ? あたしが人をいじめてたって。だから、自治組織の奴らに説教されてこい、って言いたいわけ?」
「そんなことない……」
「なら、どうすればいいのよ」
美鳥は立ち上がり、亜華音の肩を掴む。ぐっと加えられた力に、亜華音は顔をしかめた。
「いっ……!」
「……あたしは、どうしたらいいのよ」
痛みで顔を歪める亜華音は、何とか目を開けて美鳥を見ようとしていた。美鳥の目は、目の前に居る亜華音を見ていないようで、焦点が合っていないように感じられた。
――助けて
「……え」
美鳥は口を開いていない。それでも、亜華音には確かに美鳥の声が聞こえた。亜華音が呆然とした表情で美鳥を見ていたそのとき、誰かが美鳥の腕を掴み、亜華音の肩から放した。
「何してんのよ、美鳥!」
「……柚季」
美鳥が視線を動かすと、そこに柚季の姿があった。柚季は怒りを前面に出した表情で、美鳥を睨んでいる。
「あんた、……昔みたいにやりたいの?」
「柚季、何言って……」
柚季の言葉に美鳥は一瞬、表情をゆがめた。気付いた亜華音は口を開いたが、柚季は止まらなかった。
「亜華音を昔のクラスメイトみたいにいじめて、そんなにいい気分になりたいの?! ねえ、どうなのよ!!」
「柚季、やめてっ」
「だったらどうしたのよ」
しん、とその場が静まる。先ほどまで叫んでいた柚季の口から、言葉は失われる。亜華音が美鳥を見ると、美鳥はふっと笑っていた。
「……違うよね、美鳥。そんなこと、ない」
亜華音が美鳥に向かってそっと手を伸ばしたが、その手は美鳥によって払われた。ぱん、という乾いた音が亜華音の耳の中で反響する。
「あんたに、何がわかるって言うの」
笑みを消し、見下すような目で美鳥は亜華音に尋ねる。
「あんたに、あたしの思いの、あたしの気持ちの何がわかるって言うの?」
――助けて
感情を消し去ったような美鳥の声と、泣きそうに震えている美鳥の声。自分の耳に届いた二つの声のどちらが、本当の美鳥の声なのか亜華音にはわからなかった。美鳥は亜華音とすれ違うように隣に立ち、耳元でそっと囁いた。
「許してなんて、言わない。あたしは時雨を消す。これが、あたしの決意だから」
「美鳥の、決意……」
「放課後、あたしは図書室に行く。止められるものなら、止めてみなさいよ。それとも、『友達』のすること、応援してくれる?」
くす、と笑った美鳥はそのまま歩いて教室を出て行った。亜華音は驚きの表情のまま、その場に立っているままだった。
「……来たのね、美鳥」
アカツキに来た美鳥を見て時雨は声をかける。時雨と向かい合うように立つ美鳥は、これまでにないほど眉間に皺を寄せ、異常な気迫を漂わせていた。
「時雨、あんたを終わらせてあげる」
美鳥は右手を前に出し、その手にナイフを出現させた。それをしっかりと掴み、美鳥は走り出した。それを、時雨は真っ直ぐと無表情で見つめている。
「……美鳥」
時雨の声と同時に、美鳥はナイフを放つ。ナイフの数は増え、雨のように緑色に輝くナイフが時雨に降り注いだ。辺りに土煙が舞う中、美鳥は速度を落とさぬまま、時雨に向かって走った。
「終わりよ!!」
時雨の影が見えた瞬間、美鳥はナイフを影に向かって振った。が、美鳥の手にびりびりとした痺れが現れていた。
「……貴女が全力で来るというのなら、私はそれに全力で答えるつもりよ、美鳥」
美鳥のナイフの刃を受け止めていたのは、時雨の黒い剣。穏やかな笑みを浮かべて言う時雨に、美鳥は奥歯を食いしばっていた。
「ふざけるな……!」
余裕の表情を浮かべる時雨に対し苛立ちの表情を浮かべる美鳥。美鳥は刃をはじいて時雨から距離を置き、ナイフを構えたまま睨んでいた。
「……あたしは、ナナコ先輩のために、あんたを消すのよ……」
「美鳥……、うっ?!」
そのとき、時雨は突然息が詰まったかのような声を上げた。胸の辺りの制服をぎゅっと握り締め、体を少し前に倒した。荒い呼吸をしているのが、肩の動きからわかる。それを見て、美鳥はにやりと笑った。
「もらった!!」
美鳥がナイフを投げて数を増やした。俯いたままの時雨に直撃すると、思われた。
一秒の間に、何度音が響いただろうか。
目の前の状況に、美鳥は目を大きく開いて立ち尽くしていた。
美鳥が放った全てのナイフを時雨は黒い一本の剣で避けていた。頭を上げた時雨の表情は、乱れた長い髪によって隠されていて見えなかった。しかし、美鳥には時雨が先ほどまでとは全く違う雰囲気をまとっていることだけはわかった。
「……さあ、美鳥、おいで。貴女の全力、私に見せてちょうだい」
髪をかき分け、顔を見せた時雨。にやりと笑うその笑みは、誰よりも楽しそうなものであり、そして誰よりも冷たいものだった。