第四十一章
時刻は昼休み前。
美鳥は、気付いたらそこに立っていた。
風は柔らかく、美鳥の染めた深い茶色の髪を優しく撫でる。
「……あたし、は」
屋上の、フェンスの前。美鳥は力なく、フェンスに指をかけていた。そこから見える空は、どこか閉鎖的にも感じられた。
――役に立たない子が嫌いなんだ
「……っ!!」
がしゃん、とフェンスが揺れる。美鳥の手が、震えていた。顔を俯けている美鳥の髪を、風だけが優しく撫でる。
「こんなところで授業放棄とは。ロマンチックなことをするね、佐木美鳥くん」
そのとき、突然声がした。美鳥がはっと顔をあげて声の方を見ると、そこに見慣れた姿があった。それを確認すると美鳥の表情は険しくなり、眉間に深い皺が寄る。
「……崎森、芳夜」
「先輩に対する態度とは思えないね。まあ、いいけれど」
「何の用よ。こんな時間に、こんなところで」
「それは、わたしが聞きたいことだよ」
芳夜はふっと微笑みながら美鳥の隣に立った。美鳥は表情を変えぬまま、じっと芳夜の横顔を睨んでいる。
「これでも学園自治組織の人間だからね。こうやって、授業を抜け出している生徒に対する指導も行えるんだよ」
「……その指導は、暴力的なものも含まれるってわけ?」
美鳥の言葉に、芳夜は驚いたように瞬きをした。それからゆっくりと美鳥の方を見ると、苛立ったように芳夜を睨んでいた。視線からの怒りは嫌と言うほど強く感じられる。
「きみは何か勘違いをしているね。わたしは、今、きみとアカツキで戦おうなどとは思っていない。だから、そんなに睨まなくてもいい」
「何よ、それ」
「睨むのって疲れるだろう? 眉間に強く力を入れないといけないし、何より、睨まれているわたしも疲れるし」
いつもアカツキで見せるものと違う芳夜の表情に、美鳥は驚きを隠せなかった。穏やかで、しかし、何故か悲しそうにも見えるその表情。美鳥は気がつけば、顔に加えていた筋肉の力を緩めていた。
「どうして、ここに来たの?」
「それはわたしが聞きたいね。授業を抜けてまで、どうしてここに来たのかな」
美鳥の問いに、逆に芳夜が尋ねる。美鳥は気の抜けたような表情で、視線を芳夜からフェンスの向こう側に変えた。
「……あんたには、関係ないでしょ」
「それも、そうだね。じゃあ、わたしの話をしよう。わたしはね、案外ここが好きなんだよ」
ふわ、と風が吹き、美鳥と芳夜の茶色い髪が揺れる。
「生徒が授業を抜け出していないか、たまに見回るんだ。でも、そんな生徒なかなかいないからね。一通り見回ったあと、こうやって屋上に行くんだ」
「……授業を抜け出している生徒って、あんたのことじゃないの?」
呆れたように美鳥が言うと、芳夜はくすりと笑った。そうかもしれない、と言いながら笑う芳夜の姿が、どうしてもいつも目の前で銃を構えている相手とは美鳥には思えなかった。
「美鳥くん」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
「そうかい。じゃあ、佐木くん」
笑みを消して、芳夜は美鳥を見る。アカツキで対立するときとは違った重い空気に、美鳥は一瞬息を詰まらせた。
「何故、きみはナナコに執着している?」
「あんたには、関係ないでしょ」
「学園自治組織の人間として、一般生徒が素行のよくない生徒と関わるのは避けてもらいたいと思っていてね」
「……そんなこと、思ってないくせに」
美鳥の一言に、芳夜は大きく目を開いた。美鳥は芳夜から目をそらして、フェンスの向こう側を見つめたままだった。
「その通りだよ。わたしは、ただ個人的にきみとナナコが何故関わりを持っているか知りたいだけだ」
「なおさら、あんたには関係ないわ。教室に戻ればいいんでしょ、戻れば」
芳夜の答えを聞いた美鳥は、フェンスを手で軽く押し、それから芳夜に背を向けて歩き始めた。
「きみはわたしによく似ているよ、佐木美鳥くん」
突然の言葉に、美鳥は足を止めた。
「きみも、きっと大切な人のために戦おうとしているのだろう。きみにとって大切な人のために」
「あんたに……、何が、わかる」
美鳥の声が低く、震える。そして振り向き、美鳥は芳夜に向かって叫ぶ。
「あんたに何がわかるって言うのよ!! あたしがどれほど先輩のことを思っているのか……、あたしがどれだけ、……大切に思ってるのか……!」
頭の中に過ぎるのは、ナナコの姿、そして――亜華音の姿。
「ああ、わからないね。わたしときみは似ているとは言ったが、完全に一致しているとは思っていない。だが、きみがナナコに傷つけられているとしたら」
直後、ぱんっと乾いた音が屋上に響く。瞳に怒りの色しか映していない美鳥、左頬を赤く染めた芳夜、挙げられたのは美鳥の右手。
「ふざけるな。何も知らないくせに、勝手な事を言いやがって」
目の前に立つ芳夜に向かって、美鳥は怒りで震える声で言った。
「……宇津美ナナコという人間は、きみが思っているような良い人間ではない。だから、きみにはあの女に関わってほしくなかった」
「あんたに、ナナコ先輩の何がわかるのよ。あたしの何がわかるって言うのよ……」
そして、美鳥は芳夜の胸倉を掴んだ。震える手で掴まれた芳夜は、怒りに任せている美鳥と違って冷静な、少しだけ泣きそうな表情だった。
「きみにとっての大切な人は、本当にナナコなのかな」
「……どういう意味よ」
「そのままの意味だよ」
抵抗する気はない、というような芳夜の態度に美鳥は手を離した。そして、何も言わずに美鳥は屋上を去った。美鳥が見えなくなった頃、芳夜は小さく息を吐き出して空を見上げる。
「わたしにはこうすることしかできないんですよ……先輩」