第四十章
「……おや、どうしたんだい、美鳥?」
チャイムが鳴り響く美術準備室。そこには本来いないはずの生徒の姿が、二つあった。
「悪い子だね。授業をサボって、ここに来るなんて」
くすくすと笑いながらナナコが言うと、美鳥は部屋の奥に入り、いつもの席に座っているナナコの前に立った。
「あたしは、先輩のためなら、何にでもなれるんです。良い子でも、悪い子でも」
「可愛いことを言ってくれるね、美鳥」
ナナコはすっと立ち上がり、そのまま美鳥の体を抱きしめた。突然のことに、美鳥ははっと大きく目を開いたが、すぐに細めた。幸せそうな美鳥の笑みを、ナナコはちらりと確認すると言葉を続けた。
「ワタシのためなら何にでもなれる、か。そんな素敵な告白、初めて聞いたよ」
「だって、あたしは……ナナコ先輩が、好き、だから」
「そうか……そうだね」
美鳥の髪に触れ、そのまま優しく撫でる。
「けれどね、美鳥」
「ワタシは、役に立たない子が嫌いなんだ」
美鳥の呼吸が止まる。
はっと顔をあげると、そこにあったナナコの顔はいつもと同じ笑みのままだった。
「ナナコ、先輩……? 今、何て……」
「美鳥、ワタシはキミを信じているよ。亜華音くんを裏切って、時雨を手に入れてくれることを」
言葉の意味がわからなかった。美鳥は大きく開いた目を、ただナナコに向けるしかできなかった。そんな美鳥の心境を察したのか、ナナコはゆっくりと言葉を続ける。
「簡単な話だよ。キミが亜華音くんをアカツキに呼んで『ごめんね、もう戦うのはやめよう』と言う。亜華音くんが許したその瞬間に、亜華音くんの胸をキミのナイフで貫けばいい。アカツキの傷はここでは残らない。それでキミが時雨を倒すチャンスはできる」
「……あたしが、亜華音を、裏切る?」
美鳥が言葉を繰り返すと、ナナコはそっと体を離した。
「キミなら、できるだろう?」
「あ、あたし……は」
震える体、歪む視界。それでも、はっきりとナナコの姿だけは捉えていた。歪んだ笑みに見えるのは、自分の視界のせいか、そうでないのか、美鳥には判断できなかった。
「キミを信じているよ、美鳥」
――あんたは助けてあげるよ、佐木、さん?
何故か、言葉が重なって聞こえた。
「そうそう、噂を聞いたんだけどさあ」
昼休み。亜華音はいつものように柚季と小春と一緒に食堂で昼食を食べていた。そのとき、亜華音の向かいがわに座っていた柚季が右手の人差し指を立てて注目を集めるようにしながら話を切り出した。
「美鳥の行ってた中学って、あんまりよろしくない噂があったらしくって」
「よろしくない噂?」
「うん。何でも、美鳥の学年でひっどいいじめがあったらしいの」
気にせず食べようとしていた亜華音だったが、その言葉に箸が止まる。小春が珍しく興味津々と言うように「それで?」と言葉の続きを促していた。
「うん、それでね。なんでも、美鳥もそのいじめグループの一員だったとか」
「そうなんだ……」
「だからさあ、もしかして、だけど……」
柚季が突然、声のトーンを落とし、それから辺りを見渡した。そして、口の横に壁を作るように手を添えて、亜華音と小春に言った。
「亜華音を、いじめのターゲットにしようとか、してたんじゃない?」
「え」
「……確かに、前、亜華音を見てた顔、すごく怖かったし」
「なっ」
柚季と小春の反応に亜華音は驚きを通り越して、怒りを覚えた。ばん、と机に手を叩きつけて立ち上がる。
「そんなことっ」
「あまり気分のよくならない噂話はしない方がいいな」
そのとき、亜華音の背後から第三者の声がした。一同が視線を向ける先にいたのは、
「とっ、透さま?!」
自分の昼食を乗せたおぼんを持って立っている透。いつも通りの無表情の透はちらり、と亜華音の隣にある空席を見た。
「そこの席、座らせてもらっても良いか」
「は、はい! どうぞ!!」
亜華音が答えるよりも先に、柚季が返事をした。呆然とする亜華音の横を通り過ぎ、そのまま隣の席に座った。
「何をしている。お前の昼食が冷えてしまうぞ」
「あ、はい……」
どうやら場を丸め込んでくれたらしい。亜華音はゆっくりと席につき、透の横顔を見た。何もなかったかのように、自分の昼食を黙々と食べている。柚季はうっとりとしながらそれを見て、小春はそんな柚季を呆れたように見ていた。
「亜華音」
「は、はい」
突然声をかけられた亜華音は慌てて返事をした。まるで柚季や小春に聞かれないようにするような小さな声で、透は言葉を続けた。
「佐木が、無断欠席をしたと聞いた」
「……はい」
「欠席の際には連絡するように、と、本人に伝えておけ。お前の口から、だ」
「私の、口から?」
「ああ。今回の件は、私たちは関与しない」
一瞬で、それがどういう意味かわかった亜華音は目を大きく開き、それから透を見た。
「どういう、ことですか?」
「芳夜がそう決めた。芳夜が決めた以上、私も関わることができない。だが」
そして透も亜華音のほうを見た。
「お前なら、佐木を助けられる。芳夜は、そう言っていた」
「崎森先輩が……?」
「ああ。私はそれを伝えにきただけだ」
言い終えると透は立ち上がった。いつの間にか、昼食は全て綺麗に食べられていた。
「午後の授業が始まる。君たちも遅れないようにしろ」
それだけ言って、透はおぼんを持って去っていった。
「美鳥を、助ける……」
ぽつり、と透が言った言葉を亜華音は繰り返す。その言葉は、亜華音の中にずしりと重く残った。