第三十六章
亜華音が、欲しい。
授業中、美鳥は視線を少しだけ後ろに向けた。相変わらず、ぼんやりとした表情で黒板を見つめている亜華音と、それを優しく注意する小春の姿が見えた。美鳥はそれからすぐに顔を前に向けた。
「……亜華音が、欲しい」
ぽつりと零す美鳥。その声は、黒板の前で説明をする教師の声にかき消されて誰の耳にも届かない。
「……何でなの」
何で、亜華音なの。
美鳥は大きく息を吐き出して、黒板を見た。授業の内容は、頭に入ってこなかった。
後ろの席の亜華音は、ぼんやりとした表情で黒板を見つめていた。
「亜華音」
隣から聞こえてきた声にびく、と肩を震わせると、小さな笑い声が聞こえた。隣を向くと、小春が口元に手を当てて笑い声を抑えていた。
「ダメだよ、ぼーっとしてちゃ。ノート全然書いてないじゃん」
「あ、ごめんごめん」
注意されて、亜華音はへらりと笑う。それから黒板をしっかり見ようとしたとき、自分に向けられる視線を感じた。
「あ……」
美鳥の顔が、亜華音のほうを向いていた。亜華音は小さく手を振ろうとしたが、美鳥はすっと視線をそらして前を見た。
「……美鳥」
朝、職員室から戻ってきた美鳥の様子はいつもと違っていた。声をかけにくい、暗い雰囲気をまとっていた。それは、今も同じ。
朝の会話で、何か美鳥が不快になるような話があったのだろうか、と不安に思っていた柚季と小春に対して、亜華音はそれとは違う何かがあるような気がしていた。
「どうしたんだろ、美鳥……」
そして、放課後。
「じゃあねー」
「部活頑張ってね」
「あー、練習きついわー」
一日の授業が終わり、これから部活がある者やそうでない者、自習をする者や教員に呼び出された者などのそれぞれの言葉が教室に交差する。
「小春ー! 今日も練習見に行くねー!」
「え? でも、もう真木田先輩来ないよ?」
「違うよー。普通に弓道部の応援! アタシ、弓道部の応援部長なんだから!」
小春の席に柚季がやってきて、楽しげに言う。胸を張りながら言う柚季に、小春は苦笑いを浮かべていた。
「ねえねえ、亜華音も一緒行かない? この間の試合、感動したでしょ!」
「あー……いや、今日は遠慮するよ。また今度の機会、で」
亜華音は柚季の誘いを断り、美鳥の席を見る。そこに、美鳥の姿はなかった。
「美鳥、いない……」
「珍しいね、何にも言わないで美鳥が行くなんて」
亜華音がどこを見ているのか気付いた小春が、不思議そうに言う。小春の隣に立つ柚季は少し不満げな顔をしている。
「なんかちょっと感じ悪くない? 何にも言わないで行っちゃうなんて」
「うーん、感じが悪いっていうか……なんか、怖かったよね、美鳥」
「あー、確かに。急にキレたみたいな感じだったし」
「……違うと、思うよ」
柚季と小春の言葉に、亜華音が否定した。亜華音の表情は、柚季も小春も見たことのないような真剣なものだった。
「……亜華音?」
柚季に声をかけられた亜華音は、いつもと同じような柔らかい笑顔を浮かべた。
「ごめん、私帰るね。また明日」
そして、亜華音は荷物をまとめて教室を出た。
「なんか、亜華音も美鳥も、変だよね?」
「うん、ちょっと様子が違う、かも」
柚季と小春は、何が起きたのかわからないように教室の扉を見ていた。
教室を出た亜華音は早歩きで寮に向かっていた。
「美鳥、帰ってるよね……」
しかし、改めて考えて、亜華音は足を止める。廊下の真ん中で止まった亜華音を不思議そうに見る生徒が何人かいたが、ほとんどは気にせずそのまま通り過ぎたり、すれ違ったりしていた。
「……まさか、ナナコ先輩の所」
亜華音が振り向いて、寮から美術準備室に向かおうとしたときだった。
びりびり、と空気が震える。
はっと目を大きく開いた亜華音は、そのまま走り出した。
「きゃ?!」
「ちょ、ちょっと!」
すれ違う生徒たちにぶつかりそうになって声を上げられたが、亜華音は気にせず必死になって走っていた。
「美鳥……!」
アカツキに、美鳥はいた。そんな美鳥の前に、時雨がいた。
「久しぶりね、こんな風に二人で会うなんて」
「……時雨」
微笑む時雨とは対照的な暗い表情で、美鳥は低い声で時雨の名を呼んだ。
「……時雨、『レッドムーン』に来なさい」
「私はずっとナナコにも言っているけど、どこにもつかないわ。私は、ただ、ここにいるだけなの」
「そう。なら、力ずくでも来てもらうわ」
美鳥は右手に緑に光るナイフを出す。時雨はそれを見て、口元に小さな笑みを浮かべた。
「美鳥、貴女なら……終わらせてくれるのかしら?」