二十九

 

 暗い。

 明かりの灯っていない部屋が、こんなにも暗いことを美鳥は知らなかった。

「……暗い」

 一晩寝ても体は重く、動かせるような状態ではなかった。結局学校は一日休んでしまい、一日中ベッドの中にいた。じっと天井を見つめているだけで、朝から食事もとっていない。

 目を閉じて眠ろうとしたが、美鳥は眠れなかった。目を閉じると、ただ暗闇が広がるのではなく、嫌な光景を思い出してしまう。何度も何度も忘れたいと思っていた光景が、頭を過ぎる。忘れたいと思っている光景が、目の前に現れる。

「嫌だ……」

 目を閉じるのが怖い。暗い部屋が怖い。誰か助けて、と小さく零す美鳥の声が、震えていた。

「誰か……誰か……」

 涙が、目じりから落ちる。呟く時間が、永遠かと思えるほど長く感じた。

「ナナコ……先輩……」

 美鳥は呟き、顔を枕に埋めた。そのとき、部屋のドアがノックされる音が響いた。

「っ!」

 はっと顔をあげ、美鳥は目元を拭いた。寝たままで乱れていた髪を手で整え、そして起き上がった。

「ど、どうぞ……」

 美鳥は扉のほうを向き、声をかけた。扉がゆっくり開かれる。

「……入るよ、美鳥」

 そこにいたのは、亜華音だった。緊張した面持ちでいた美鳥の顔が、一気に緩んだ。

「なんだ、亜華音か」

「え? 今、なんだって言った?」

「うん、言った」

 美鳥は起き上がった体をベッドに倒し、亜華音に背を向けて横に寝転んだ。

「せっかくお見舞に来てあげたって言うのに、そういう態度はどうかと思うよ?」

「誰も来てくれー、なんて言ってないわよ」

「そんな素直じゃない子には、デリシャスチョコパンをあげないわよー?」

 亜華音が意地悪く言った言葉に、美鳥が体を亜華音のほうに向けた。上目づかいで、亜華音を見つめる。

「本当に?」

「証拠品はこちらです」

 にやりと笑った亜華音は美鳥のそばに寄り、美鳥の顔の前にパンを見せつけた。それを見て、美鳥ははっと目を大きく開いた。

「すごっ。どうやって買ったのよ?」

「まあ、気合で。食べれる?」

「うん、大丈夫だと思う」

 美鳥は起き上がり、亜華音からパンを受け取った。

「あ、ごはんは食べた?」

「いや、食べてない。学食行くのもきつくてさあ」

「よーし。じゃあ、私がおかゆを作ってあげよう!」

 亜華音が腕まくりして言うと、美鳥は若干不安そうな表情を浮かべた。

「恐ろしいわ……亜華音の料理、なんて」

「失礼な! 絶対美鳥、私の料理食べて泣くんだから」

「苦しみで?」

 からかうように美鳥が言うと、「じゃあ、苦しめてやる!」と亜華音は笑いながら言った。

 

「行かなくて、よかったの」

 美術準備室で本を読んでいた沙弥が、小さな声で尋ねる。一瞬誰に問われたかわからなかったナナコはその言葉を無視して爪をいじっていたが、しばらくしてから沙弥の顔を見た。

「……ワタシに言ったの?」

「貴女以外に、ここに誰がいるの」

「意外だね。沙弥がそんなことを言うなんて」

 どこに、とは問われなくてもわかっていた。今、ナナコが行く可能性のある場所は、一つだけなのだから。

「あの子、貴女のことを好いているでしょう」

「らしいね」

「貴女はどう思うの」

「……さあ、どうだろう」

 目を細めて笑いながら、ナナコは答えた。その笑みの意図は、沙弥にも読み取れなかった。

「沙弥はどう思っているのかな? 美鳥のことは」

「別に、興味がないわ」

「沙弥らしいコメントだね」

 時雨以外の他人に興味を示さない沙弥の、予想通りの言葉にナナコは笑いながら言った。

「ねえ、沙弥。もしもワタシが、美鳥に本気だとしたら、どう思う?」

 ナナコは沙弥の隣に立ち、耳元に口を近づけて囁くように尋ねる。沙弥は一切動じた様子を見せない。視線はずっと手にしている文庫本に向けられている。

「……冗談かと思う」

「ひどいなあ、沙弥。キミって、そんなに毒舌だったかな?」

「貴女はそんなことで本気になるような人じゃないでしょう」

 淡々とした口調で沙弥が言い切った。その言葉に肯定も否定もせず、ナナコはただ笑った。

 

 

  

 

  

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