二十八

 

 屋上にいる少女は、フェンスを越えた先に立っていた。彼女があと一歩進めば、その体は数メートル下にある地面に叩きつかれるだろう。

 普通ならば恐怖を覚えるであろう場所に立っている彼女の表情は、恐怖どころか安心しきったような笑みが浮かんでいた。

「これで、終わりね」

 少女は大きく一歩踏み出し、目を閉じた。体が傾き、足が地面から離れる。ふわり、と体が軽くなった感覚が全身を包む。

 しかし、彼女の望む終わりは訪れていなかった。自分の満足するような終わりを遂げることが出来なかった彼女は、むなしい思いを抱いていた。そんな時、彼女は気づいた。

「私だけが苦しい思いをするなんて、変な話ね」

 何故、私だけがこんな思いをしなければいけないのか。それに気づいた少女は、いい方法を思いついた。

「そうよ、私だけじゃないはずだわ」

 きっと今なら、やりなおせるかもしれない。そして、少女はそれを実行した。

 

 赤い月の浮かぶ、アカツキ。そこに、時雨は一人立っていた。

「……どうして、なのかしら」

 小さく呟く声は震えている。俯く時雨の髪の隙間から、自嘲する笑みが見える。それから顔をあげて、月を見る。

「私は、終わりたいはずなのに」

 終わりを望むはずなのに、剣を振るってくる相手に対して自分もまた剣を向ける。時雨は、そんな自分の中にある言葉と行動の矛盾に気づいていた。それでも、言葉では「終わり」と発し、手には剣を、弓を握っている。

 そして、自分を守ると言った亜華音の存在。

「あの時、私は拒めばよかった……なのに、どうして……」

 ナナコに問われた「千条亜華音が自分にとってどのような存在か」という問いに、時雨は答えられなかった。沙弥にしてきたものと同じように、手を伸ばさずに突き放せばよかったはずだった。しかし、時雨はそれを、しなかった。

 

「好きな人を、守りたいって思ったんです」

 

 何故、その言葉に自分が動かされているのか。時雨はその理由がわからなかったが、確実に自分の中の何かが揺さぶられている気がした。今まで出会った少女たちとは違う、千条亜華音という少女の存在に時雨は内心、戸惑っていた。

「亜華音……」

 

 

「とりあえず、終わった部分だけ受け取ることにしよう」

「はい……。すみません……」

 翌日。亜華音は昼休みに職員室に呼び出され、先週出された課題についてのお説教を晶子から受けていた。

「昨日は何か忙しかったみたいだな?」

「え?」

「慌てて教室を飛び出るところを見かけたぞ。プリントが落ちるのも気にしないで、な」

「あっ」

 どうやら戦闘に気づいた瞬間の様子を、晶子に見られたらしい。亜華音は引きつった表情で「えーっと、そのー」と言い訳をしようとしたが、何もいい言葉が思いつかなかった。

「まあいい。お前の努力だけは認めてやろう、千条」

「はい、ありがとうございます!」

「ただし、また授業中気を抜くことのないように!」

「は、はい! 失礼します」

 亜華音が深く礼をして、職員室を出ようとしたとき、晶子が「ちょっと待て」と亜華音を引きとめた。

「これ、佐木に渡してくれないか?」

 そう言って晶子が亜華音に渡したのは数学のプリント。今日の授業内容に沿うような問題が書かれていた。

「提出は来週まで、と伝えといてくれ」

「はい、わかりました」

 そして亜華音は職員室を出た。小さく息を吐き出し、亜華音は教室の様子を思い出した。

 いつもなら亜華音より先に教室にいるはずの美鳥は朝から教室におらず、今日は欠席であるということがホームルームで伝えられた。昨日のことがあってから、亜華音は美鳥に会っていない。心配はいらない、という透の言葉はあったが、亜華音は不安を隠せずにいた。プリントを見つめ、とぼとぼと廊下を歩く。

「美鳥、大丈夫かな……」

「亜華音くん」

 そのとき、前のほうから声がかけられた。亜華音は慌てて顔をあげて、「はいっ!」と大きな声で返事をした。そこにいたのは、芳夜だった。

「崎森先輩……」

「やあ。昨日は運んでくれたようだね、ありがとう」

「い、いえ! そんな、その……」

 にこりと穏やかに微笑む芳夜をみて、亜華音は手を振って言う。そのとき、亜華音の手からプリントが落ちた。

「あっ」

「おっと」

 足元に落ちたプリントを、芳夜が拾った。そのプリントを見て、一瞬、芳夜は表情を険しくしたが、すぐに戻して亜華音にプリントを渡した。

「これは、佐木くんの、かな?」

「え、あ、はい……今日は欠席で……」

 心配そうに俯く亜華音を見た芳夜は、その肩に手を乗せて言った。

「心配ないよ。少し彼女は無理をしただけだ。だから、少し休めばよくなるよ」

「本当、ですか……?」

「ああ。ほら、わたしだってこの通りだし」

 にっと笑ってみせる芳夜に亜華音はようやく表情を緩ませた。

「それじゃあ、わたしは用事があるから失礼するね。佐木くんに、暗い顔見せないように」

「あっ、はい! ありがとうございます!」

 亜華音が深く礼をすると芳夜は軽く手を振り、歩き始めた。亜華音も、顔をあげてすぐに寮へと向かった。

「……まあ、お互いにダメージは大きかったみたいだね」

 芳夜は持っていた書類を見て小さく呟く。その書類は、午前中の授業の欠席届であった。

 

  

 

  

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