第二十七章
亜華音は、透と共に芳夜を自治会室に連れて行った。放課後の校舎はほとんど人がおらず、二人がかりで芳夜を運んでいても誰にも見られることはなかった。ソファに横たわる芳夜を、亜華音は心配そうな表情で見つめる。
「……そのうち目を覚ます。心配しなくてもいい」
「でも……」
「芳夜は、この程度のことで倒れるようなことはない。安心しろ」
透がはっきりと言う。亜華音は何も言えず、小さく頷いた。しかし、亜華音の表情は変わらない。その表情を見て、透は小さく言った。
「佐木美鳥のこと、か」
「え?!」
「宇津美に抱えられているのを見た。佐木とは、同じクラスだったな」
亜華音はぱちぱちと瞬きをしながら透の問いに肯定の頷きをする。
「少し力を使いすぎたようだったが、問題ないだろう。心配しなくてもいい」
「ほ、本当ですか?!」
「ああ」
そこでようやく、亜華音の表情が緩む。「よかった……」と言う声には、安心の色が含まれていた。一方で、透はどこか険しい瞳で横たわる芳夜を見ていた。今まで、芳夜がこんな状態になるまで戦っていた姿を透は見たことがない。そして、ナナコが抱えていた美鳥の姿もどこか気になっていた。
「千条亜華音」
「は、はい!」
突然名前を呼ばれた亜華音はびくりと肩を震わせて大きく返事をした。
「お前の戦う理由を、もう一度問いたい。何故、お前は戦う?」
「私の、戦う理由……」
「時雨を守るため。だが、戦いたくないとも言っていたな」
先ほどの沙弥との戦いの中、目の前に迫ってくる沙弥に対して「戦いたくない」と言ったことを思い出した亜華音は、何も言えずに頷いた。
「お前の目的と、宇津美たちの目的は似ているが、違う。それでも、お前はためらうのか?」
「それ、は……」
「まだ、お前の瞳にはためらいが見える」
はっきりと言い当てられて、亜華音ははっと目を開いた。透は、まっすぐ亜華音を見つめていた。
「戦うのなら、ためらいを捨てろ。私と戦うときも、だ」
「先輩と、戦うとき……」
「違う」
透の凛とした声が否定をする。今の言葉に誤りがあるのかわからなかった亜華音は「え……?」と弱々しい声を上げた。
「お前の先輩でも、学園自治組織の一員でもない、私と――真木田透と戦え」
「先輩でも、自治組織でもない……」
「ぶつかるならためらうな。戦うのなら迷いを捨てろ。お前の覚悟は、その程度で揺れるものなのか」
ためらいのない瞳と言葉。それが、今の自分に足りなかったもの。亜華音は、拳をぎゅっと握り、目を閉じた。
「……私、は」
目を閉じて、思い出すのは時雨のことだった。優しい笑み、穏やかな声、しかし、どこか陰のある切ない表情。触れた手は冷たく、自分とは違う存在。
「守りたい、です。時雨さんは、大切だから。傷つけたくない、と思うから」
言いながら、亜華音は小さく首を振る。自分の言葉にある、ためらいがはっきりと見えた。確信のない、ためらいだらけの言葉。
「私は、時雨さんを……大切な人を守ります。絶対に、傷つけない。守るために、戦います」
目を開いた亜華音には、先ほどまでのためらいはない。その亜華音を見た透は口元に、小さな笑みを浮かべた。初めて見る透の笑みに、亜華音の表情が緊張から緩んだ。
「透でいい」
「……え?」
「私のことは、透と呼んでいい」
「透……さん?」
亜華音が恐る恐る、と言うように名前を呼ぶと、透は頷いた。今まで見てきたどの表情とも違う、優しげな透を見て、亜華音はぱちぱちと瞬きをする。
「そろそろ寮に戻れ。時間になる」
「え」
亜華音が時計を確認しようとした瞬間、チャイムの音が響いた。
『下校時刻になりました。校舎にいる生徒は窓とドアの施錠を行い、速やかに寮に帰ってください。繰り返します――』
天井にあるスピーカーを見つめながら亜華音は「本当だ……」と小さく呟いた。
「じゃ、じゃあ、失礼します。えと、……透、さん」
「ああ」
亜華音は扉の前で深く礼をした後、自治会室を出た。しばらく透は閉じた扉を見ていたが、ゆっくりと振り向いて芳夜のほうを見た。
「聞いていたのか、芳夜」
「まあ、ね」
透の声に反応して芳夜は体を起こした。ふっと微笑み、透の顔を見つめている。
「そこまで彼女に思い入れがあるのかな、透」
「ない、といえば嘘になる」
「自分と、重ねているから?」
芳夜が透に尋ねる。それは、いつかしたものと同じものだった。
「ああ」
透の答えは、芳夜の予想とは違うもの。しかし、透の瞳には偽りもためらいもなかった。
「私は、彼女と自分を重ねている。自分と同じ道を進ませないためにも、私は戦わなければならない」
「実にきみらしい、答えだね」
くすくすと笑う芳夜に、透は呆れの表情を浮かべていた。
「お前は大丈夫なのか。彼女が心配していたが」
「ああ、問題ないよ。少し、無理をしすぎただけだ」
「……宇津美は、何を考えている?」
深刻な顔をして、透は芳夜に尋ねた。芳夜は大きく、息を吐き出した。
「さあ……。多分、あまりよくないことを考えているようだけどね」
芳夜は視線を窓の外に向けて、低く呟いた。夕暮れ時の空は、アカツキを思い出させるように真っ赤に染まっていた。