十九

 

 少女は、屋上にいた。

 黒く長い髪は、冷たい風に吹かれて、風の線を描くようになびいている。

 少女は、屋上のフェンスを越えた向こう側にいた。

 黒い瞳は憂いを帯びて、悲しみを帯びて、しかし、涙は枯れたようなものだった。

 少女は、空を見上げた。

 冬の空はやけに澄んでいて、夕暮れと夜の間、橙と黒と水色が程よいバランスで混ざっている。白い雲は薄く細く伸びている。

 それが、少女が最期に見た空だった。

 重心を少しずつ背中に傾けると、少女の体は背中から倒れる形になる。手は本能的に平衡を保とうとして上に向けられるが、掴むものも何もない。

[貴女は孤独なの?]

 少女の耳に、誰かの声が聞こえた。今までに聞いたことの無い声は、少女に問い掛けた。

[貴女は寂しいの?]

[貴女は苦しいの?]

[貴女は泣きたいの?]

[貴女は叫びたいの?]

[貴女は笑いたいの?]

[貴女はひとりなの?]

 声は一人のようで、一人ではなかった。いくつもの声が混ざって一つになっているようなその声の問いに、少女は答えない。感情を映さない瞳は、ただ真っ直ぐに空を見つめている。

[貴女は違う自分になりたいの?]

 しかし、その問いにだけ、少女は反応した。目をはっと開き、一瞬手を、天に伸ばした。

「……私は」

 私は、貴女たちの思うような人間じゃない。私は、貴女たちの望むような人間じゃない。

「私は、……!」

 けれど、それはもう叶わない願い。少女は、伸ばした手を下ろして目を閉じた。

 少女の足が、地面から離れて、そして、

 

 

 赤い月が浮かぶ空間、アカツキ。そこに、時雨はいた。

「……」

 空を見上げる動作で、さらさらと黒く長い髪が揺れる。赤い月は常に満月で、今が何時なのかを忘れさせるようだった。時雨は、そんな月をぼんやりとした瞳で見つめている。

「また、か」

 ふっと、時雨は自嘲するような笑みを浮かべた。また、自分は空を見上げていたのかと思って、視線を落とす。そこにあるのは赤い大地。空も、月も、大地も、そして自分自身も赤く染まるようだった。

「私は結局、何も変わっていないのね」

 時雨は自分の手を見つめ、髪に触れ、そして再び空を見上げた。悲しげな瞳だったが、その瞳から涙が落ちる様子はなかった。

「貴女は何も、変わらなくていい」

 誰もいない、と思っていた時雨は、突然聞こえた別の声に驚きの表情を浮かべたが、すぐにその表情は消えて、穏やかな笑みを浮かべた。振り向き、時雨は声をかける。

「来たのね、沙弥」

 自分と似た雰囲気をもつ少女、沙弥。時雨は、彼女を見てどこか悲しげな笑みになる。

「休戦、じゃなかったのかしら。誰も来ないと思っていたけど」

「今日は、戦うつもりは無い。ただ」

 沙弥は駆け寄り、時雨の胸にしがみついた。時雨はその行為を、納得したような顔で見つめる。一瞬、沙弥の頭を撫でようと手を動かしかけたが、ぎゅっと握って、何もせずに下ろした。

「貴女の、そばにいたい」

「……沙弥」

「私は、貴女が好き。だから、そばにいたい。貴女に、そばにいてほしい」

 言葉が続くほど、沙弥が時雨にしがみつく力が強くなる。震えている沙弥の手を見た時雨は、目を伏せた。

「沙弥。それが……、貴女の望みなの?」

 時雨の問いに、沙弥は答えない。ただ、何も言わずに、時雨のそばにいるだけ。

「私は、貴女のためなら何でもする。貴女が私のそばに、いてくれるのなら」

「……沙弥」

 時雨は、目を閉じて沙弥の名前を呟く。それを聞いた沙弥の表情は、普段見せることの無いほど幸せそうなものだった。

 

「休戦、というのもつまらないモノだね」

 ナナコは、誰もいない図書室で小さく息を吐き出した。

 芳夜と共に休戦を宣言してから一週間。この一週間はアカツキでの戦闘で生じる空気の揺れを一度も感じなかった。透あたりが痺れを切らして戦闘を起こすかと思っていたナナコだったが、結局その予想ははずれることになってしまった。

「……まあ、そろそろかな」

 にやり、とナナコは笑う。瞬間、ナナコの姿が図書室から消えた。

 

 放課後の誰もいない教室で、亜華音は課題と格闘していた。

「ああー! もう、幟先生も意地悪すぎるよー!!」

 亜華音は頭を抱えて叫ぶ。元々数学が得意ではない上に集中力も長く持たない亜華音にとって、その課題の多さは耐えられないものだった。半分泣きそうになりながら、亜華音は机に突っ伏した。

「もう無理……。先生に聞こうかな……」

 泣きそうで震えている声で亜華音が呟いたそのときだった。

 びりびりと、空気が震えた。

「なっ?!」

 顔を上げて、あたりを見る亜華音の目は、驚きで大きく開かれている。頬から、小さい汗の筋が落ちた。

「一体……誰が……?」

 亜華音はがたがたと音を立てて席を立ち、そのまま走って教室を出る。揺れた机から、課題のプリントが何枚も床に落ちた。

 

 

 

  

 

 

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