第十七章
休戦宣言から二日経ったある日。
「謎だ……」
休み時間でにぎやかな教室と不釣合いな、深刻な表情を浮かべている亜華音。そんな亜華音を、美鳥が首を傾げながら見つめている。
「どうしたのよ、亜華音。変な顔して」
「変な顔じゃない! ちょっと不思議に思って」
「不思議?」
美鳥が亜華音の言葉を繰り返して、さらに首を傾げた。
「休戦宣言。何で崎森先輩と宇津美先輩はすんなり休戦を受け入れたんだろう?」
「まあ、お互いのためじゃない? だって、あんなふうに戦ってもおたがい体力消費しちゃうじゃない。あたしもあの状態で戦うのは嫌だったかな」
自分の状態を思い出しながら、美鳥は亜華音に言う。ナナコのことで頭がいっぱいだった美鳥にとって、あのまま芳夜や透に挑んでいたらただでは済まなかっただろう。
「そっか……。でも、どっちも戦おうとしないんだね」
「って、まだ二日しか経ってないじゃん。なんだかんだ言って、アカツキに入ると体力使うからね」
美鳥は肩を押さえながらおどけるように言った。その言葉に、亜華音はぱちぱちと瞬きをして美鳥を見つめた。驚いたような表情を浮かべている亜華音に、今度は美鳥が疑問をもったような顔をした。
「何、その顔?」
「疲れるの? アカツキ入るのって」
「え?」
「私、全然感じたことないから。そんなに疲れるものなのかな?」
亜華音は美鳥と同じように肩を押さえたり、首を回したりしながら言った。美鳥は少し疑問を抱いたような顔をしていたが、きっと個人差がある、と納得させて深く考えるのを止めた。
「それはいいとして。あたしの説明で、納得してくれた?」
「うん! あー、なんか問題が解決されるとすっきりするよねえ」
「……そう、ね」
亜華音の何気ない言葉に、美鳥は苦笑いを浮かべる。
現状は、何も問題が解決されていない。美鳥の目の前にいる亜華音が『赤月』でも『レッドムーン』でもなく、ただ時雨を守ろうとする立場にいること。そして、『レッドムーン』自体も時雨を手に入れることができていないこと。
「……美鳥?」
ぼんやりとしているような美鳥の表情を見て、亜華音は心配そうな声をかけた。考えにふけっていた美鳥ははっと顔を上げて、小さく首を振った。
「ううん、なんでもない。そろそろ先生来るだろうし、あたし席に戻るね」
美鳥は亜華音に手を振り、自分の席に向かった。
授業中、亜華音は窓の外を見つめていた。ぼんやりとした表情で空を見つめ、授業の内容は相変わらず頭の中には入ってこない。
「アカツキ……、時雨さん……」
空に広がる色は、青。つい二日前まではこの色とは真逆のような、赤い空間に自分がいた。それがどこか、夢のような気がして、しかし、現実味を帯びた緊張感や恐怖感はまだ頭の片隅に残っていた。
「……私、間違ってたのかな」
小さく呟き、視線を窓の外から黒板に向ける。黒板に広がる文字の意味がわからず、亜華音の頭は一瞬、真っ白になった。またぼんやりしてしまった、と亜華音が後悔していたとき、右腕にとんとん、と何かが触れた。
「亜華音」
「え?」
隣の席の小春が、人差し指で亜華音の右腕を叩いていた。気づいた亜華音が小春のほうを見ると、小春が小さく折りたたまれた紙を亜華音に渡した。
「あんまりぼーっとしてちゃ、だめだよ」
「うん、ありがと」
小声でやりとりをした後、亜華音は黒板の前で説明をする教師に見つからないように、紙を広げる。
「……美鳥」
緑色のペンで、『集中せよ!』の文字。誰から、と言われなくてもわかるその丸文字に、亜華音は頬を緩ませた。再び黒板を見て、やっと古典の授業が行われていることを思い出した亜華音は黒板の文字をノートに写し始めた。
それから数十分後。授業が終わり、にやりと笑いながら美鳥が亜華音の席までやってきた。
「感謝しなさいよ、亜華音。あたしがあの手紙渡さなかったら、また怒られてるところだったんだからね」
「感謝しております美鳥さまー。で、お礼は何がいいの?」
「購買の、デリシャスチョコパン。最近食べてないからねー」
美鳥の指定したパンに亜華音は、「ああ、おいしいよねー」と言った後、その値段を思い出してはっとなった。
「ちょっと待て美鳥?! あれって、三百円もするじゃん! 高いじゃん!」
「あら、あたしの手紙にはそれ以上の価値があると思うけど?」
「友情はプライスレス……」
「ふっ」
亜華音と美鳥のやりとりを聞いていた隣の席の小春が我慢しきれず、とうとうふき出した。その瞬間、美鳥と亜華音が同時に小春の顔を見る。
「小春ちゃーん? もしかして、今、笑ったりしたー?」
「ごめんごめん、つい。だって、二人とも可笑しいから」
「何が可笑しいのさ! こっちは真剣なんだよ?!」
という亜華音の顔を見て、今度は美鳥もふき出した。真剣、と言うにはどこか足りないような亜華音の必死な顔に、美鳥と小春が声を上げて笑う。
「ちょっと?! 二人とも笑わなくていいじゃん!」
「だって、亜華音の顔……可笑しくて……!」
「その顔はずるいわよ、亜華音。アホっぽくて可愛いわー」
「ああ?! 今、アホって言った!!」
美鳥の言葉に亜華音が声を上げる。そんな二人を見て、また小春が腹を抱えて笑った。
それから授業を全て終えた亜華音は、寮に戻る前にある場所に向かった。
「……行っても、いいよね。戦うわけじゃ、ないし」
放課後の校内は、人がほとんどいなくなるため静かになる。外の部活の声が反響しているが、昼間あったような騒がしさはなくなる。電気も消え、夕日だけが校舎に明かりを入れていた。
そんな人の少ない校舎を抜け、亜華音は図書室の前に立っていた。校舎よりもさらに静かな空間が、そこに広がっている。
「誰も、いない?」
亜華音は図書室の扉にそっと耳を当てて、中の音を聞いた。誰かがいるような声や音はしない。少しためらいがちに、扉に手をかけて、図書室の中を見た。
「あら、来たのね」
中から聞こえたその声に、亜華音は胸を弾ませた。