第十六章
亜華音が時雨を守る、と言った翌日の放課後。
「真木田さん、本当にありがとうございます」
ぺこぺこと礼をしながら自治会室を去ってゆく同級生を見て、透は小さく息を吐き出した。
「透、もてもてだねえ」
そんな透の様子を見て、芳夜がにやりと楽しそうに笑っている。芳夜のほうを向く透はいつも通りの無表情だった。透の顔を見た芳夜はさらに笑みを深めた。
「なんだか嬉しそうに見えるのは、気のせいかな?」
「何故私が嬉しそうにする必要がある」
楽しそうに言う芳夜に対して、透ははっきりと否定した。声には苛立ちも含まれているようだった。しかし、芳夜はにやにやと笑いながら透を見つめている。
「好きだったんじゃないのかな、弓道」
「……」
「久しぶりに好きなことができると言うのは、嬉しいことだと思うけれど?」
芳夜の言葉に、ぴくりと透の眉が動いた。眉間に皺が寄り、睨むように芳夜を見た。
先ほどまで自治会室に来ていたのは、弓道部の部員。今週末行われる試合に出る予定だった生徒がけがをしてしまったために、中学時代に弓道部だったという透に助っ人を頼みに来たのだ。当初は断ろうとした透だったが、
「いいじゃないか透。学園自治組織の一員ならば、学園のために、生徒のために活動すべきだ。そうだろう?」
という芳夜の言葉によって、半ば強引に引き受けることとなってしまった。
「しばらくわたしも、きみも、学生生活を謳歌しないとね。これは学生の間にしかできない特権だ」
「……本当に、休戦ということか」
昨日の芳夜とナナコの言葉。実際に、今日は一度も空気の揺れを感じず、誰も戦っていないことがわかった。透は、睨んだままで芳夜に尋ねた。
「そのほうがお互い都合がいいだろう? まあ、わたしとしては反乱組織に一年生が入っていたからその探りもしたいし、あと千条亜華音の判断に少しばかり動揺していてね」
動揺、という言葉が似合わないような笑みを浮かべて芳夜は言う。
「わたしとしては、ナナコと同じ……という言い方は少し気に食わないが、千条亜華音にこちらについてもらいたいと思っている。けれど、きみはどうだい?」
「……千条亜華音が、意見を変えるとは思わない。あの目は、もう決意した目だ」
透は、昨日の亜華音を思い出しながら芳夜の問いに答えた。しかし、思い出したのは昨日のことだけではなかった。
「だが、いずれ気づく。時雨が、どのような存在であるか」
「かつての自分が、そうだったように?」
芳夜は笑みを消して言うと、透は怒りに満ちた瞳で芳夜を睨んだ。時雨に向けているときと同じような鋭い視線を受けても、芳夜は冷静な表情のままで透を見つめている。しばらく二人の間に沈黙が続き、そして透が顔を小さく俯けた。
「……そうだ。私は、千条亜華音に自分を重ねている。だから……」
自分と同じ結末を行く、亜華音の姿。自分と同じ結末を見せる、時雨の姿。
「けれど透、きみはまだ……時雨を信じているんじゃないのか?」
「……何?」
「自分を重ねていると言うのなら、何故すぐに自治組織に引き寄せなかった? 確かに、私たちだけで彼女に力をつけさせることは難しいが、結末が同じというのなら止めることもできたはずだ」
芳夜の問いに、透は目を閉じた。記憶の中に現れるのは、優しい笑みを浮かべる――時雨。
「……私にも、わからない」
泣きそうな震えた声。眉間の皺はさらに深く、表情は困惑しているようなものとなっている。
「だけれど、私は……許さない。時雨の、ことを……」
放課後の美術準備室。そこに、美鳥の姿があった。
「……先輩、いないなあ」
誰もいない準備室に来た美鳥は、小さくため息をついて辺りを見た。偶然目をとめたのは、いつもナナコが座っている席だった。
「ナナコ先輩の、席」
美鳥はゆっくりと席に近づき、そっと座った。背もたれを撫でるように触れて、美鳥は幸せそうな笑みを浮かべる。
「これで、あたしもナナコ先輩みたいになれるかな……」
ゆっくりと目を閉じて、美鳥はナナコの姿を思い出す。
明るく染めた茶色の髪、だらしなく着た制服に、どこか妖艶な笑み。それは、美鳥が憧れている人物の姿。
「ナナコ先輩……」
小さく呟くと、そのまま美鳥は眠りについた。美鳥の小さな寝息だけが、美術準備室に響く。
「全く、かわいいことを言うね」
美術準備室の前の扉に寄りかかっていたナナコは困ったような笑みを浮かべながら呟いた。このまま入るのも、互いに気まずいだろうな、と思ったナナコはその場から去った。