第三章
黒板の前で、教師が亜華音に向かって何かを言っている気がする。
亜華音はぼんやりと、窓の外を見ていた。外に広がる空は青く、雲は白い。少し視線を下に落としてグラウンドを見れば、どこかのクラスが体育の授業でソフトボールを行っている。
「千条、どこを見ているんだ?」
すぐそばで声がしたので亜華音が声のほうを向くと、すぐ隣に授業を行っている教師が立っていた。
「幟、先生」
「何をしている? 私は、お前に質問をしたはずだけれど」
数学の教諭である幟晶子はにこりと笑みを浮かべて、けれど言葉にはその笑みから発せられそうな穏やかさは全く含まずに亜華音に言った。慌てて亜華音は黒板と教科書を見比べた。気づいたら、かなりページが進んでいる。
「えっと、……わかりません」
「だろうな。では、千条のためにもう一度確認する。教科書の六十三ページ、例題三について――」
亜華音のそばから離れた晶子は黒板に向かい、はっきりと通った声で再び説明をはじめる。指定されたページを開き、問題に目を通す。
昨日の出来事は、本当に夢だったのだろうか。
亜華音は授業が終わった後も、ずっとぼんやりと窓の外を見つめていた。あの赤い空間が忘れられず、あれはもしかしたら現実だったのかもしれない、と亜華音は思っていた。
「亜華音、本当に大丈夫?」
「うーん」
「ねえ、亜華音」
「へー……」
「あーかーねーさーん?」
「あー……」
美鳥が目の前にいるというのに、亜華音の反応はあいまいなものだった。と、言うよりは話を聞いていないで適当に返事しているようなものである。
「ダメだ、完全に世界ぶっ飛んでる」
「うーん……」
反応の無い亜華音に、美鳥が大きくため息を吐く。そのとき、教室の外が騒がしくなった。
「あっ、亜華音いる?!」
「え? どうしたのよ」
一人の生徒が慌てて教室に飛び込み叫ぶ。当の本人はぼんやりとして話を聞いていないようで、代わりに美鳥が事情を尋ねることにした。
「い、今、自治組織の……」
「失礼する」
説明をはじめようと口を開いたとき、その生徒の背後から別の声が上がった。美鳥の目がはっと大きく見開かれた。
「千条亜華音は、ここにいるか」
騒がしかった教室がしんと静まる。そこでようやく亜華音は視線を教室の入り口付近に向けた。
「あ、なたは……!」
そこにいたのは昨日、あの赤い空間で出会った女子生徒、透だった。教室を見渡して、亜華音を見つけるとそのまま亜華音の席に向かい歩き出した。美鳥は慌ててその場から離れた。
「千条亜華音」
「……はい」
「少し話がある。自治会室に来てもらいたい」
透に見つめられた瞬間、また亜華音はびくりと震えた。鋭いなにかが、直接心臓に打ち込まれたかのような衝撃を感じた。
「わ、かりました」
「そうか。先生には、千条亜華音は我々の元にいる、と伝えておいてくれ」
そう言って、透は亜華音を連れて教室を出た。すぐそばで様子を見ていた美鳥は呆然とした様子で去ってゆく二人の背中を見つめた。
一方の亜華音は、一歩先を歩く透の背中を見つめていた。
「私の背中に、何かついているか」
「えっ?!」
亜華音のほうに顔を向けず、透は尋ねる。背中に目でもついているのか、と思った亜華音が声を上げると、透は少し亜華音のほうを向いた。
「痛いほど視線を感じる。何か、言いたいことでもあるのか」
「いえ、その……どうして、私を」
「心当たりはあるはずだ。そうでなければ、素直について来なかっただろう」
視線を前に戻しながら、透は言った。それが事実だったため、亜華音は何も言えなくなる。
「詳しくは、これから聞くこととしよう」
透が立ち止まり、亜華音のほうを向いた。透の後ろにはドアがあり、上には『自治会室』というプレートが貼り付けられていた。
「ようこそ、学園自治組織『赤月』へ」