リョーコとある作家

 

 男の夢を初めて聞いたとき、良子は正直呆れた。

「僕は作家になりたいんだ」

 良子は今でもその彼の言葉を忘れることが出来ずにいた。はっきりと耳に残って、目を閉じればそのときの笑顔を浮べた彼が浮かんでくる。良子は時々それに苛立つことがあったが、それで彼に怒りをぶつけることはなかった。

 良子は応援するつもりなどなかったのだが、結果的には応援していた。毎日、学校が終わった後に彼のもとに差し入れを持って行く。彼は話を書き始めたら、食事を忘れてしまうのだ。以前、一カ月食事をせずに話を書き続けたこともあった。

 そのたび、良子は文句を言いながら食事を作る。良子の食事を食べて、男は笑う。何だかんだ言いながら、良子はそんな日々を楽しんでいるようだった。

 

***

 計画性のない大人ほど面倒な生物はいない、と良子は思った。目の前の男は机の上に置いてある紙を睨みつけて頭をぼりぼりと強く掻いている。紙には文字が記されているが、それは途中で止まっているようだ。

「ああああ」

 男は強く目をつぶり、天井に向かって唸る。まるで飢えた獣のように叫ぶ男の姿を見て、良子はため息をつく。

「書けましたか、大先生?」

「書けません」

「書きません、の間違いじゃないんですか?」

 良子が眉間に皺を寄せながら、男に言う。男が顔を上げて良子を見た。その表情はやつれていて、目の下には真っ黒な隈ができている。

「そ、そんな、わけないじゃないか」

 言葉が震えている。良子は冷たい目を男に向けて、鼻で笑った。何でこんなに計画を立てずになんで仕事を引き受けるかな、と良子は呆れてあくびをした。そして、今まで授業を受けていた疲れがどっと良子の全身にのしかかった。

「あのさ、良子ちゃん」

「何?」

「あと一ヶ月待ってくれない?」

「無理」

 良子が言い切ると、男は「うっ」と唸って胸を押さえた。出たな、傷ついたフリ。良子は白い目で男を見つめ、机を指先で叩く。

「仕上げるって言ったのはどこの誰よ、大先生」

「僕です」

「大正解。有言実行こそ、大人のあるべき姿じゃないの?」

 良子はまるで教師のように言った。男は頷き、肯定した。

「そのくせ締め切り延ばしてください? ふざけんな」

「すみません」

 蚊の鳴くような声で、男が言う。良子は鼻で大きく息を吐いて、男と机の上の原稿用紙を見る。原稿用紙には走り書きの文字が並んでいる。慌てて男が書いたのだろう、その姿を良子は簡単に思い浮かべることが出来た。

「ふーん」

「何?」

「読めないな、って思って」

「だろうね。これだけ催促されれば」

 最後のほうはまた蚊の鳴くような声で男は言った。その呟きを聞き逃さない良子は男を睨んだ。

「何か言った?」

***

 このごろ、良子の周りの友人たちがある本を読んでいる姿を見かけるようになった。

「何の本?」

「あれ、良子知らないの? 最近流行りなんだよ」

 そう言って、友人が差し出した本には『ケータイ小説』と隅に書かれていた。そういえば、クラスメイトもみんな似たような本読んでいるよな、と良子はその本を受け取りながら思った。

「面白いの、これ」

「泣ける!」

 友人が良子に向かって指をさしながら言った。その強い口調に良子は少し身を引きながら、相槌をうった。そして、友人は目をキラキラと輝かせながら『ケータイ小説』について語りだす。

「何だろう、言葉が身近に感じられるの。それで、表現があたしらとすごくリンクするっていうか、同じ感じ!」

「へ、へえ…」

「だからね、すごい主人公の気持ちが入ってきてさぁ…このシリーズなんかマジやばい!」

「ふ、ふぅん…」

 こんなに熱く語る友人が自分の近くにいるなんて、と良子は苦笑いをした。テレビや新聞などで時々批判される『ケータイ小説』だが、同級生たちがこんなにハマるのなら結構面白いのかもしれない。良子は試しに、友人から一冊借りることにした。

 内容はわかりやすかった。主人公の女子高生がとある男子高校生と出会い、恋に落ちる。しかし、彼女たちに待っていたのは元カノとの関係だったり女子高生の友人の男子との関係だったり、主人公と男子高生の間の子どもだったり……日常に近いけれど遠い波乱万丈を入れ込んで、良子にとっては王道走ってるだけじゃん、と思わせるものだった。良子はそこそこの読書家である。しかし、何故かそれが身近に感じられた。そして、良子の涙腺もわずかに揺れ始めていたのだ。

「ね、何か泣けるでしょ?!」

 良子が読んでいる隣で、友人が鼻をすすりながら言った。どうやら、隣で良子と一緒に読んでいたらしい。その友人の言葉に頷き、良子はページをめくる。くそう、意外と王道って泣かせるじゃない、と良子は涙ぐみながら物語を読み進めた。

 何がこんなに自分を感動させたのか、と良子は読みながら考えた。携帯で自分たちに身近な言葉で『書く』ことが原因である、という結論に達した。確かに、携帯なら誰でも簡単に触れられて、なおかつ女子高生なら誰でもわかる言葉で書かれている。そのために、読み手は感情移入しやすいんだ、と堅苦しいことを考えていた。

つまり、良子が想像していたよりも『ケータイ小説』は面白かったのだ。

***

「先生、書けた?」

 その日の放課後も、良子はやはり男の所に行っていた。男は机にぐったりと倒れこんでいて、呼吸をしているかどうか危うい状態だった。

「おーい、先生。生きてる?」

「し、に、そう」

「ご飯は?」

「食べ、て、ない。白い、お米、見たい」

 また食事を忘れたのか、と良子は呆れながら台所へ向かう。冷蔵庫の中には何故かシャーペンが二本ほど入っていた。その他には、何もない。

「全く、もう」

 それを想定して良子は学校帰り、近くのスーパーによって食事の材料を買ってきていたのだ。

「先生、お米ってある?」

「た、ぶん」

「よし」

 台所を探したら、米があった。今日買ってきたのは牛肉と玉葱。

「牛丼にしますか」

***

 出来上がった牛丼を見て、男は目を輝かせた。良子が「どうぞ」と言った瞬間男は箸を取り叫んだ。

「いただきます!!!」

 がつがつ、という表現が似合うぐらいの勢いで男は牛丼を食べる。漫画みたいだな、と良子は思いながら男の食べる様子を見つめる。自分の料理を美味しそうに食べてもらえると、やはり嬉しいものである。

「先生、美味しい?」

「すごく、美味しい」

 微笑む男の姿は子どものようである。いつから自分はこの男の保護者になったのだろう、と良子は思った。けれど、それがすごく不快なわけでもなかった。

「ところで話変わるけどさ、先生」

「ん?」

 口の中に牛丼を含みながら、男は良子のほうを向く。

「書けた?」

 男は、もぐもぐと口を動かす。口の中で、牛肉と米がすり潰されて、味が広がってゆくのだろう。良子は問いかけに答えない男を見つめて、自分が作った牛丼の味を想像した。男は問いかけに、答えない。

「先生、書けた?」

 きっと主語が抜けていたから答えられなかったのだろうと良子は考えて、最初に「先生」と付けて尋ねた。と、言うより男から逃げ場を無くすために言った。男はわずかに俯いて、口を動かす。

「ねえ、先生」

「…ま、だです」

 牛丼を飲み込んだ男はそう言った。良子の予想通りの回答であった。男は牛丼が入ったどんぶりを持ちながら、良子から視線を反らす。

「あ、あと少しなんだ」

「それ、何度聞いたことか」

「本当、だよ! あと少しで、完成」

 ぎこちない言葉に、良子は呆れた。けれど、今まで言わなかった『完成』という言葉に、もしかして、と思った。

「本当に?」

「本当、本当だよ。僕が良子ちゃんに嘘ついたこと、ある?」

「いっぱいある。締め切り何度延ばしたことだか」

「……すみません。でも、本当に完成なんだ!」

 男は空っぽになったどんぶりを台所の流し台に入れて、良子に言った。

「ほとんど完成、と言っても過言じゃないね」

 珍しいことだ、こんなに彼が自信有り気に言うなんて。良子は驚きを隠せずに、男の姿を見つめた。

「珍しいね、先生が自信あるなんて」

「自信……ただ締め切りに間に合っただけなんだけどね」

 苦笑いを浮べて男が言った。自分の机に戻り、引き出しを開いて紙を取り出す。先日良子に見せた原稿用紙の続きであった。

「手書きで終わってね。良子ちゃんが前に読めないって言ったからパソコンに入れるんだ」

「手書き版、見たいかも」

 良子はそう言って、男に手を向ける。予想外の良子の行動に、男は「へ?」と間抜けな声を上げた。そして、良子に原稿用紙の束を渡す。

「読めないんじゃ、なかったの?」

「いや、何となく読みたくなって」

 受け取った原稿用紙を見る。正直、字は綺麗なものに思えなかった。それでも、良子はその雑な文字を見続けた。

「読める?」

「読みにくい」

「でしょうね」

 男が苦笑いを浮べて返事をすると、良子は小さく笑った。きっと、慌てて書いたのだろう。きっと、徹夜で書いたのだろう。きっと、苦しみながら書いたのだろう。そんな男の姿が容易に想像できた。相変わらず字が下手だな、なんて考えながら良子は話を読み進める。

 男の書く物語は遠まわしである。男と女が出てきて、結局くっつかない。二人はお互いに恋愛感情を持っているのか、持っていないのかよくわからない。今回は良子と同じ年齢ぐらいの高校生の少女が主人公である。

「ねえ、先生」

「何?」

「この二人って結局どうなったの?」

「どうだろうねえ」

 いつもと同じ答え。良子はその後の登場人物が気になるのに、男ははっきりと答えない。そのことに少し腹が立つこともあるが、聞きなれた今では普通のことと認識している。そして、良子は男を見る。

「この主人公の高校生の女の子ってさ、モデルいる?」

 良子の問いかけに、男は若干視線を反らした。まさか、と良子は呟いた。

「あたしなの?」

「………ええっと」

「何? 先生の目に映るあたしってこんなにお金にがめついの?」

「いや、そんな事は」

「それとも、あたしが先生にたかるっていうの? そんなお金、先生のどこにあるの?」

 良子の鋭い言葉は男の胸にぐさぐさと刺さる。

「えっと、全部をモデルにしたわけじゃなくね、ちょっとだけだよ。口調とか、ね」

 引きつった笑顔を浮べ、男は必死に言い訳をする。これが大人の姿かよ、良子は呆れきった目を男に向ける。

「そ、それにしても、原版見たいって、珍しいね」

 男が逃げようとして、考えた結果がそれだった。良子は男が逃げようとしたのを感じていたが、あえて触れずにいた。

「やっぱり手書きっていいなあって思って」

「そりゃそうだよね」

「『ケータイ小説』はさ、先生の話よりわかりやすかったよ」

 突然良子の話が変わったので、男は驚いた。そんな男の様子を無視して、良子は言葉を続ける。

「ありきたりだけど、まあ読みやすかったし。多分、あたしの同級生に先生の話を見せたら絶対言われるよ」

 男を指さし、真顔で良子は言った。

「わかりにくい、って」

「りょ、良子ちゃん……そんなさ」

「絶対言う。間違いなく言う。でもあたしは先生の書く話、好きだよ」

 良子は笑う。

「あたしは、わかりやすい『ケータイ小説』よりも必死で手を疲れさせながら『書いた』先生の、わかりにくい話のほうが好き」

 なんだか褒められた気がしない、と男は思ったが良子の笑顔を見たらどうでもよくなった。そして、良子は原稿用紙に完全に目を通し終わったらしく、男に言った。

「先生、お疲れ様。無事に締め切り破らなくってよかったね」

「本当ですよ」

「その言葉はあたしが言いたいぐらいなんだけどね」

 刺々しい言葉を良子は男に向ける。しかし、もっともな言葉なので、何も言い返せない男がいた。それでも、そういう良子の姿を見るのが自分の幸せなのかもしれない。そう考えて、男は微笑んだ。

 

:あとがき:

良子ちゃんは良いお嫁さんになると思います。というか、先生の保護者になりそうな……

二人の関係は、なんというか編集者以上恋人未満です(笑)

なんというか、良子ちゃんは何だかんだ言って先生の事が好きなんです、多分。先生も先生で良子ちゃんのこと大好きだし、いろんな意味で両思い!

ただ、この二人が恋人以上になることは一生ないと思いますが。

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