ナミオト〜消えてゆく記憶の中で〜

 

 それは遥か未来。今から何年も、何十年も、何百年も、未来の世界。そこでは、全ての物事が「わかる」。

 

「嫌い」

 その時代、ある海岸沿いで青年と少女が静かに向かい合っていた。

「嫌い」

 少女は、青年に同じ言葉を言った。青年はその言葉を聞いても、じっと少女を見つめている。

 

 その時代、全ての物事が「わかる」。全ての物事、世界の摂理、神の創造、人類の謎、

 

そして、

「嫌い」

 少女はまた、青年に言った。少女の瞳には、青年のまっすぐ見つめる姿が映っている。青年の瞳にも少女の姿がある。

「嫌い」

 少女の言葉と同時に、波の音が響いた。青年が何かを言おうと、口を開いた。が、波の音に消える。

「嫌い」

 青年はもう何度目かのその言葉をただ、無言で受け止めていた。何も言わず、青年は少女を見つめていた。

「…嫌い」

 少し、少女の声が弱く震えた。何も言わなかった青年が、一瞬驚いたような顔をした。

「大丈夫か」

 少女に対し、青年は不安げな声を上げた。少女は小さく首を振り、青年を見直した。

「嫌い」

 少女の顔色が悪い。青年はそう思ったが、言葉に出さなかった。手を伸ばせば届くはずなのに。

 青年は、ただ静かに少女を見つめるだけだった。ぎゅっと青年は拳を握った。

「嫌い」

 少女がそういた瞬間、強く咳き込んだ。少女の咳と、波の音が響く。少女は、そのまましゃがみこむ。

「…き、らい…」

 苦しそうに、少女が声を出す。また、少女は咳をする。不安げな顔をしている青年だが、その場から一歩も動こうとしない。

「きら、い…嫌い…」

 咳と途切れ途切れに、少女は青年に何度も言った。嫌い、嫌い、と何度も何度も言った。

「嫌い…き、…あ、きら、い…」

 そのとき少女の瞳から、涙が落ちた。涙が落ちて、砂浜にしみこむ。何かの枷が外れたかのように、少女の瞳からボロボロと涙が落ちた。まるで雨のように、涙が落ちる。

「嫌い…!嫌い、嫌い…」

 少女の瞳には青年を憎むような、ましてや嫌いであるような、そんな感情は映っていなかった。青年は、顔を歪ませた。

「………」

 僅かに手を伸ばして、しかし戻した。少女は青年のその姿を見て小さく微笑んだ。

「きら…ぅ、うっ…」

 少女が言葉を出そうとしたが、咳によってそれは出来なかった。今まで以上に強い咳が、少女の言葉を防ぐ。そして、その咳を抑える少女の手から、赤い液体が溢れた。

「あっ…」

 その赤い液体を見て、少女も青年も驚いたような顔をした。

「…やっぱり、そうなの…」

「…大丈夫、か?」

 青年の問いに、少女は苦しげに微笑み、首を振った。

「もう、無理だよ」

「無理……」

「私、もう無理だよ」

 笑っている表情、言葉は限界を表していた。少女は引きつった笑顔を浮べている。

「…嫌い…」

そしてまた少女はずっと青年に言い続けた言葉を言った。青年は静かに頷いた。

「…ああ」

 青年の頷きを見て、少女が引きつった笑顔をといた。一瞬だけ、驚いたような顔をして、また笑った。

 先ほどとは違い、それは純粋な笑みだった。

「き、ら…っ、うっ…、本当は……き、」

 少女の言葉をかき消したのは、波の音。本来なら人々に癒しを与えるその音が、彼らに絶望を与えた。

 

 その時代、全ての物事が「わかる」。全ての物事、世界の摂理、神の創造、人類の謎、

 

 そして、

 人の死ぬ、その時間も。

 

 

「……」

 青年は、少女の姿を見つめていた。少女は純粋な笑顔を浮べてその場に倒れこんだ。波が彼女を包み込む。

 手を伸ばせば届く距離にあった。しかし、彼は手を伸ばさなかった。

 

 死の時間が「わかる」その時代、最も必要だったことは

 

「……」

 手を伸ばしてはいけない。青年は、少女の姿を見つめても手を伸ばすことはしなかった。少女は幸せそうな笑顔を浮べている。

「……」

 

 最も必要だったこと、それは、

 死を受け入れ、そして、抵抗しないこと。生への希望を与えないこと。

 

 だからこそ、青年は少女に手を伸ばさなかった。もし、あの時手を伸ばしていたら、少女はきっと生きていたいと思ったから。

 そして、青年はその場に崩れるように座り込んだ。その瞳には少女の笑顔が映っている。

「…ああ…」

 あの時手を伸ばせば、と青年は自分の手を見ながら思った。青年はゆっくりと少女に手を伸ばした。そして、冷たくなった少女の頬に触れる。

「ああ…」

 青年はそう呟いた。少女の頬に、涙が落ちる。

 

 

 また波の音が、その空間に響く。

 

 

 病室で少女はベッドに横たわっていた。少女は外に出る事を許されていない。

 その日、少女の最期の時間が判明した。それを聞いた少女は悲しむことも嘆くこともしなかった。そして少女は、青年に笑いながら言った。

「最期の時は、『嫌い』って言いながら死にたいの」

 青年は少女の言葉の意味がわからず、「え?」と聞き返した。

「どうして?」

「もし、普通の事を言ったら、きっとあなたは忘れちゃうでしょう?」

 その言葉には、とても深いものがあった。青年は、漠然とそれを理解した。

 そして、青年は少女に最期の時が何時かを尋ねた。

「最期の日、何がしたい?」

 青年の問いに、少女は少しだけ驚いたような顔をした。

「最期の日…海に行きたいわ」

 少女は、病室の窓を見つめながら静かに言う。

「海……?」

「そう。連れて行ってくれる約束、したでしょう?」

 少女の言葉に、青年は頷いた。それを見た少女は静かに微笑んだ。

「だから、連れて行って。そこで、あなたに嫌いって言うわ」

「どうして、『嫌い』って言葉なんだ?」

 特別な言葉はいくらでもある。『嫌い』という言葉よりも『好き』や『愛してる』のほうが、心に残りそうなものだ。

 そう思った青年が尋ねると少女はくすくすと楽しそうに声を上げて笑った。

「だって、『好き』や『愛してる』って言葉は誰にでも使えるわ。でも、嫌いって言葉は本当に思っている人に対してじゃないと使えないと思うの。」

 『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』。

 嫌いという感情は、思っていない人に対しては使えない。少女は青年の瞳をじっと見つめながら言った。

「だから、『嫌い』って言葉にしたの」

「……そうか」

「うん」

 それから一週間後、少女は死んだ。最初に宣告された時間と一秒のずれもなく、予定通りその時間に死んだ。

 

 死の時間がわかる。それは、人々に希望を与えるはずだった。

 しかし、それは変えられない絶対的な運命。

 死の時間がわかる。それは、人々に絶望を与えてしまった。

 

 そしてまた、波の音が響く。

 

 

 

:あとがき:

先輩に「うわ、暗いね……」と言われた思い出の作品です(笑)

本当はもっと近未来ファンタジーみたいな話だったのですが、思いのほか静かな感じの話しになりました。

少女と青年のなんともいえない絶望感、というものが表現出来ていたらいいなと思っています。

波の音は癒しの音、なんていわれているけどそれと真反対に受け取る人もいるだろうな、と思って書き始めた物語でした。

 

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