キスの味はまだ知らない
休日の街中で我が幼馴染を見かけたとき、正直、動揺した。
「……どうしたの、聡子」
私の異変に気付いた弘美が、首を小さく傾げた。彼女の黒い前髪が、さらさらと音もなく、揺れる。
「弘美、どこかに、お出かけ?」
きっと、私は彼女の問いに答えていないのだろう。きっと、この会話はまともに成立していないのだろう。それでも、私は彼女に尋ねていた。
「ああ、うん。ちょっとね」
楽しそうに答える、弘美。そこにあるのは、年相応の少女らしさ。
「デート?」
一番訊きたくなかった質問。
「うん」
一番聞きたくなかった答え。
「聡子、驚いた?」
からかうように、弘美は私に尋ねた。笑う顔は、少女そのもの。私の知っている弘美と、違うもの。
「……誰と、デート?」
きっと、私は彼女の問いに答えていないのだろう。きっと、この会話はまともに成立していないのだろう。それでも、私は彼女に尋ねていた。
「冗談だよ、聡子。デートって言っても、理奈と出かけるだけだから」
りな、リナ、理奈。まるで携帯で漢字に変換するように、私は弘美の口から出た名前の人物を思い出した。弘美と同じ学校で、私と同じ美術部に所属している同級生。
「理奈がね、映画に誘ってくれたの。当選でペアチケット当たったから、一緒に行こうって」
頬はチークで彩られていて、桃色。目元はアイシャドウの、淡い桃色。唇は慣れていない口紅で紅く、染まっていた。桃色の花柄ワンピース、白いパンプス、白いバッグ、黒い髪を結うシュシュは白いレースでできている。
「……かわいいね、弘美」
「そう?」
くす、と笑う弘美の唇は、紅い。
「びっくりしたよ。休みの日に、こうやって弘美と会えるなんて。それも、こんなにかわいい弘美に会えるなんて」
「そんなに褒めても、何にも出ないよ」
「私は思ったことを言っただけだよ」
一歩、二歩、弘美との距離を縮める。弘美は、笑っているだけ。
「聡子って、そんなにお世辞が上手だったかな」
「私が言うのはお世辞だけじゃないよ」
弘美との距離は、あと、一歩。手を伸ばせば、たやすく彼女の全てを手に入れられるというのに。
「……どうしたの、聡子」
不思議そうな顔をして、また、弘美が、首を小さく傾げた。紅い唇は、いつも見慣れたものと違う。
手を伸ばせば、たやすく彼女のすべてを手に入れられるというのに。
私の人差し指が触れたのは、弘美の、紅い、唇。
まるで口紅を塗りなおすように、私の右手の人差し指はゆっくりと弘美の唇をなぞる。なぞり終えた指は、そっと、弘美の唇から離す。
「……え」
目を丸くして、弘美が私を見る。弘美の黒い瞳には、私しか映っていない。
「その口紅、似合っていなかったよ。今の方が、よっぽど弘美らしい」
「そう? やっぱり、お母さんの口紅じゃ、私には合わないか」
苦笑いをして、弘美が私の言葉に頷いた。それから、腕時計を見て「あっ」と弘美が声を上げた。
「ごめん、聡子。私、もう行くね。電車の時間に間に合わなくなっちゃう」
「うん、わかった」
弘美は笑って手を振り、それから私に背を向けて走り出した。シュシュにまとめられていても、黒い髪はゆらゆらと揺れて、つやつやと光っていた。
「……似合わないよ、弘美」
人差し指についた紅い色を、そっと自分の唇に当てる。舌先に伝わるこの甘い味は、きっと、弘美だけのもの。きっと、弘美しか知らないもの。
「いいよ、私と弘美だけで」
この甘い味を知っているのは、私と、弘美だけ。