あったか牛乳

 

 眠れない夜は、ホットミルク。そんな言葉をふと思い出して、にらめっこしていたパソコンの画面から視線を外して、手をキーボードから離した。時計を確認すると、もう夜中の三時を過ぎていた。

 一人暮らしをしていると、時間の感覚が狂ってしまう。特に、ここ数日はパソコンと格闘していたから、日付の感覚すら失われてしまう。日付を教えてくれる人なんて、もういないから。

 ミルクパンに牛乳を入れているとある言葉を思い出した。

「眠れない時は、あったか牛乳だよ」

 

***

 

 三年前。

「お前は本当に、時間って言うものを知らないんだな」

 わたしが目を覚ますと、洋祐が不機嫌そうな顔をして仁王立ちしていた。

「……何時?」

「もう十一時」

「なんだ、まだ十一時じゃん」

 そのままわたしは布団に入ろうとした。けれど、洋祐はそれを許さず、わたしの掛け布団を勢いよく引っ張って奪い取った。

「わぁ?!」

「起きろ起きろ。もう昼だ」

「十一時は昼じゃない! 後五分だけ!」

「お前の五分は何時間だ」

 そのまま洋祐は布団をもってベランダに行った。どうやら、干すらしい。窓の外を見ると、空が青々としている。

「おはよう、洋祐」

「おはよう、恵」

 これが、わたしと洋祐の日常だった。これが、わたしと洋祐の普通だった。

 わたしと洋祐は同棲していた。同じ大学の同じ学科のわたしたちは、もちろん高い確率で出会うことができた。それから友人という関係を作り、少しずつその関係を深めていった。少しずつその関係は、友人から恋人になった。

「一緒に、暮らしませんか?」

 その言葉を聞いた洋祐は、驚きもせずにただ柔らかく笑って言った。

「どうせ、一人じゃ朝起きられないだろうし。うん、いいよ」

 大学を卒業してすぐ、わたしと洋祐はアパートの一室で暮らした。わたしも洋祐も互いに違う仕事をしていて、忙しく過ごしていたけれど夜は一緒に過ごした。

「うん、恵の料理はおいしいよ」

 わたしのつくった料理を食べると、洋祐はいつも幸せそうに笑ってそう言う。それを聞くと、料理をつくる気も湧いてくる。一方の洋祐は、全然料理ができない。料理を作らせたら、焦がすか塩と砂糖を間違えるかで、正直おいしいとは言えないものになる。

「いいんだよ、俺は作れなくても」

「何で?」

「恵が作ってくれるだろ」

 そう言ってわたしの料理を食べる洋祐。気まずい空気が、一瞬流れる。

「どうしたんだよ、恵」

「な、何が?」

「そんなぼんやりして」

「なんでも、ない」

 洋祐は、先ほど自分が言った言葉にどんな意味があるのかわかっていない。女は、そんな言葉を言われたら、普通勘違いするのよ。そんなことも言えないまま、わたしは自分の作った夕食を頬張った。

 でも、そんな洋祐だけれど、唯一つくれるものがあった。

「あったか牛乳?」

 眠れない、とわたしが洋祐に相談したら洋祐は「眠れない時は、あったか牛乳だよ」といつもと変わらない調子で言った。

「ホットミルクのことでしょ」

「ホットミルクって言うと、なんだか熱そうだろ? だから、あったか牛乳」

「……意味変わらないわよ」

 そう言っている間にも、洋祐は冷蔵庫から牛乳を取り出し、それからミルクパンに牛乳を入れた。砂糖を二杯、それからわたしの方を振り向いて囁くように言った。

「ここであったか牛乳のポイント」

「ポイント?」

「はちみつを、一杯。これで味が変わるんだよ」

 牛乳の中に、金色の蜂蜜がすっと落ちてゆく。そして、ミルクパンを火にかけて牛乳を温める。

「あったか牛乳ねえ……そんな言い方、初めて聞いた」

「嘘? 俺、ずっと『眠れない時と寒い時には、あったか牛乳を飲め』って言われてたけど」

「まあ、家ごとにいろいろ違うのよね。きっと」

 そして洋祐がミルクパンから二つのマグカップに『あったか牛乳』を入れてわたしのところへ持ってきてくれた。

「これが、あったか牛乳」

「ふーん……ただのホットミルクと変わんないみたい」

 一口、『あったか牛乳』を飲む。

「どう?」

 洋祐が微笑みながら尋ねる。その笑みには、自信が溢れていた。

「……おいしい」

 わたしがいうと、洋祐は満足したように頷いて、それからわたしの頭を優しく撫でた。

「また、作ってあげるよ」

 その言葉と、『あったか牛乳』はわたしの体の底まで温めてくれた気がした。

 

***

 

 いつからか、わたしと洋祐の生活時間にズレが生じてきた。

 今まではわたしが朝起きないとか、仕事に出る時間が違うとか、それぐらいだったものが少しずつ少しずつ違いが生まれてきた。洋祐の帰りが、日々遅くなってきたのだ。

「残業」

 そして、洋祐との会話も、少しずつ減っていった。

「残業、ってそんなに?」

「あと、やりたいことがあるから」

「やりたいことって、何?」

「恵には関係ない」

 そう言って、洋祐は自室にこもってしまった。表情はいつも疲れていて、話し掛けるなと言っているようなその横顔に、わたしは言葉を失ってしまう。

 洋祐にとってその『やりたいこと』が大切なら仕方がないと思っていた。洋祐がやりたいことを、わたしも応援したい。だから、疲れたときは何も言わないで、休ませるようにしていた。

 本当はまた、『あったか牛乳』だって飲みたかった。洋祐に、また笑ってわたしの料理を食べてもらいたかった。でも、今は出来ないのなら、せめて洋祐の助けになりたいと思った。

『レンジで一分半! やりすぎるとこげるからね』

 机の上に昨日の夕食の残りとメモを残して、いつも仕事場に行くようにしていた。家に帰ると、お皿は片付けられていて、綺麗に食べてくれていることがわかった。けれど、それはまるで会話を避けているような気がして、少しだけ嫌だった。

 しかし、洋祐との会話は望んでいない形でやってきた。

「洋祐、どういうこと?! 荷物が、全部……」

[ごめん、恵]

 ある日、家に帰ると洋祐の部屋にある荷物が全て無かった。

[大切なことが、あるんだ]

 洋祐の携帯に電話をかけると、洋祐は申し訳なさそうな声で説明を始めた。

[やりたいこと、どうしても……ここじゃできないんだ]

「何よ……」

[恵のことが、とか、関係ない。俺が、やりたいことなんだ]

「じゃあ、……っ、じゃあ、わたしと、どっちが大切なの!?」

 言いたくなかった。洋祐を応援したかったのに、『わたし』という束縛をつけたくなかったのに、でも、本当は。

[…………ごめん]

 ぷつり、と電話が切れた。

「何よ……」

 家にあった洋祐に関するものは全て壊した。写真も破って、残っていた洋祐の服も破って、おそろいで買ったマグカップも割った。

 ぼろぼろになった洋祐のものを見て、私はただ、呆然とした。腰が抜けたように床に座って、それから…………

 

***

 

 砂糖を二杯、それからはちみつを、一杯。金色の線はゆっくり白い牛乳の中へと消えてゆく。ミルクパンを火にかけて、沸騰する少し前で火を止める。

 新しく買ったマグカップは白地にピンクの音符がついたシンプルなもの。そこにミルクパンの中身を移した。白い湯気がふわふわと漂っている。

「眠れない時は、あったか牛乳だよ」

 ふぅ、と息を吹きかけて表面を冷やす。そして、一口、口に含む。

「また、作ってあげるよ」

 心の底も、体の底も温める、『あったか牛乳』。眠れない夜に飲むと、ゆっくりとした眠気がわたしの頭を優しく撫でる。

[…………ごめん]

 優しい甘味の中に、少しだけ冷たいしょっぱさ。

 私の知ってる、『あったか牛乳』と違う味がした。

 

 

 

ほんのりしょっぱいホットミルク、そんな『あったか牛乳』でした。

いつもはホットミルクって言うのを『あったか牛乳』って言うだけでがらりと雰囲気変わりますよね。個人的には『あったか牛乳』という言い方が気に入っています。

しかし内容はあんまりあったかではない、ちょっとしょっぱい話になりました。だからこそ、『あったか牛乳』がよけいにあったかく感じられる、かも。

眠れない夜には、はちみつを少し入れた、一杯飲んでみたらどうでしょう。

 

 

 

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