「そこのあなた!!」
ナタリヤは足を止め、前方を歩く人物に向かって叫ぶ。人物はゆっくりと足を止めた。
「……こんなところで、何をされているのですか?」
ナタリヤの低い声は、二人しかいない路地裏でははっきりと届く。
「それは、こっちの台詞だなァ、お嬢ちゃん」
くく、と喉の奥を鳴らして笑う、男の声。低い男の声を聞いた途端、ナタリヤの背筋に冷たいものが伝わった。
「こーんな暗い所で、オレをおっかけて来たのかい? 面白い子だねェ」
笑いながら、男はナタリヤの方を向いた。薄暗い中でも、その男が口元に歪んだ笑みを浮かべているのはナタリヤにもわかった。
「おやおや、その十字架……リュート学園の、良い子ちゃんにしか貰えないヤツじゃないか」
「……ここ最近、うちの学校の生徒が不審者に襲われています」
恐怖が、足を震わせる。それでもナタリヤは、真っ直ぐに男を睨んで言葉を続けた。
「あなたが、犯人ですね」
男を指さし、ナタリヤは断言した。男は動じた様子を見せない。
「――そうだよ、お嬢ちゃん」
「やっぱり……!」
「オレが犯人だとしたら……どうするんだい?」
男の問いに対する答えは、すでに決まっていた。
「あなたを捕まえます!!」
ナタリヤは答えると同時に走り出した。
「来てくれるとは嬉しいねェ」
男はその場から動かず、ナタリヤを待った。
「はあっ!!」
ナタリヤは拳を強く握り、男に向かって殴りかかろうとした。が、ナタリヤの細い腕は、男の大きな手にしっかりとつかまれてしまった。
「しまっ……?!」
「来てくれてありがとう、お嬢ちゃん」
目の前で男はにやりと、笑う。ナタリヤの全身に、恐怖が伝わる。
「ひっ」
「さあ、何して遊ぼうかねェ……」
男はナタリヤの腕を引き、自分の体に近づけた。耳元で囁かれた低い声は、ナタリヤの動きを止めるには十分だった。
「はっ、はなっ……」
「放さないよォ? こーんなかわいいお嬢ちゃん、めったに相手出来ないからねェ……」
引きつったナタリヤの声を聞いた男の笑みはさらに強まる。まるで、それが心地よいかのように。目の前に迫った恐怖に、ナタリヤは声も出せなくなった。
「何してやがる!!」
「あァ……?」
突然割り込んできた声に、男は不機嫌そうな声を上げる。ナタリヤは震える視界で、声のした方を見た。
「ろ……ロジャー……刑事……」
「んだよ、テメェは? 」
ナタリヤの腕を掴む男の手が、強くなる。ナタリヤの口から小さな悲鳴が上がった。
「テメェ!!」
怒鳴り声が上がる。低く獣のようなその声は、ナタリヤの鼓膜を強く震わせた。
どっ、という、低い音。ナタリヤの腕を掴んでいた力が弱まり、そのまま体が傾く。倒れてしまう、とナタリヤが思った時、背中を大きな手が支えた。
「え……」
「無事か、ナタリヤ」
ナタリヤの体を支えていたのは、ロジャーだった。何が起きたかわからなかったナタリヤは、先ほどまで自分の腕を掴んでいた男を探す。視線を少し動かすと、地面に尻を付き、頬を押さえて俯いている男の姿があった。そこでようやく、ロジャーが男を殴り、ナタリヤを解放したことを理解した。
「あの、私」
「よくやったなァ……やってくれたなァ……!」
喉の奥を鳴らして、男は、笑う。ロジャーに殴られた頬を、男は愛しいかのように優しく撫でていた。
「……オレの邪魔をしやがってよォ……」
ゆらり、と男はロジャーの方を向いて立ち上がった。顔は俯いていて、右手をポケットに突っこんでいる。それを見たロジャーは、ナタリヤの肩を掴んで強引に後ろに下がらせた。
「逃げろ!!」
「死ねェ!!」
ロジャーの叫びと、男の叫びが同時に上がる。男の右手には、銀色に光る、バタフライナイフ。男のナイフは、ロジャーの腹部に、刺さる。
「ロジャー刑事!!」
ナタリヤの悲鳴が、あたりに響いた。
***
「……ったく、いい加減泣き止んでくれないか。俺が泣かせたみたいだろ」
「だっ、だって、だって……!」
顔を両手で押さえて泣きじゃくるナタリヤを、ロジャーは困ったような表情で見ている。そばにいた警官たちのからかいの視線を全て受け止める羽目になったロジャーは、本日何度目になるかわからないため息を吐き出して、ナタリヤの頭を撫でた。
「ごめんなさい」
鼻詰まった声で、ナタリヤはロジャーに言う。
「私の、せいで……」
「構わない。と、言うか正直お前のおかげで犯人が捕まったところは否定できないがな……」
警察がずっと追っていた婦女暴行犯、それこそ最近リュート学園の生徒たちを怯えさせ、そしてナタリヤを襲おうとしていたあの男だったのだ。
あの後、ロジャーの腹部にナイフを刺した男はナタリヤに迫ろうとした。しかし、その男の手首を、ロジャーがしっかりと掴んでいた。何が起きたかわからなかった男の腹に、ロジャーが膝蹴りを入れ、気絶させた。それを確認したロジャーは、近くで自分と同じように見回りをしていた警官たちを呼び、今に至る。
「いい加減泣くのをやめろ。俺はけがしてないし」
ロジャーは視線をナタリヤから自分の腹部にずらす。スーツこそ破れているが、その下にある防刃ベストのおかげでけがは免れていた。
「でも、私が……」
「そう思ってるんなら最初からバカなことを考えるな、このバカヤロウ」
ロジャーはナタリヤの頭に乗せた手を左右に大きく動かし、髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でる。するとナタリヤの頭が少し動き始めたので、ロジャーはナタリヤの頭から手を放した。ナタリヤは、ゆっくりと顔を上げて、ロジャーを見上げた。まだ、目には涙が溜まっている。
「私、決めました」
「何だ?」
「必ず、あなたのような、刑事になります」
「……は?」
ナタリヤの唐突な発言に、ロジャーは素っ頓狂な声を上げた。
「私、わかったんです。確かに私はただの学生で、何もできない。でもあなたみたいな刑事になれば、きっと、助けられる人もいるんだって。だから私、刑事になります!!」
目の端に涙がついているというのに、ナタリヤの黒い瞳は強い意志を灯していた。それは、ロジャーがかつて見たことのある――自分自身の瞳によく似ていた。
「……そうか。お前なら、きっといい刑事になれるよ」
ロジャーの頬から緊張が抜け、ふっと微笑みを浮かべた。それを見た途端、ナタリヤは目を大きく開いた。
「……かっこいい」
「え?」
「あっ、いえ!」
ナタリヤの言葉が聞き取れなかったロジャーは首をかしげて聞きかえしたが、ナタリヤは答えずにロジャーに背を向けた。それから、目の端にたまっていた涙を服の袖で拭い、再びロジャーの方を向く。
「私、頑張ります! 必ず、あなたのところに行きますよ、ロジャー刑事!」
先ほどまで泣いていた少女が、今度は満面の笑みを浮かべている。そんな様子に、ロジャーは笑みを浮かべるしかできない。
「おう、必ず来い。俺の背中に、ついて来い」
それからその二人がとある怪盗を追いはじめるのだが、それはまた、別の話。