アリアは、見知らぬ部屋で目覚めた。雨で濡れていたはずの身体が、今は暖かい毛布の中に包まれている。首を少し動かして視線をずらすと、壁にかけられている時計が見えた。時刻は、七時を少し過ぎたところ。

「目が覚めた?」

 突然聞こえてきた声に、アリアは大きく目を開いた。視線を動かし、声がしたほうを向くと、そこには髪を下ろしているスーツ姿のナタリヤの姿があった。

「ナタリヤ……さん」

「体の調子はどう? 熱っぽい感じとかはないかしら」

「はい、大丈夫です……」

 返事をしながら、アリアはゆっくりと起き上がる。改めて部屋の中を見ると、まだ薄暗く、今が朝であるとようやく認識できた。

「あの、私……」

「いいわよ、もう少し寝ていても。今日は、ここでゆっくりしていて」

 穏やかに微笑むナタリヤを見て、アリアもつられて笑った。しかし、自分でもよくわかるほど、その笑みはぎこちないものだった。

「……ジーンくんには、言わないほうがいいかしら」

 ナタリヤのその言葉に、アリアは何も言えなくなった。もしかしたら、深く事情を聞かれるかもしれない、と不安が過ぎった。しかし、ナタリヤはふっと微笑んだままで、何も言わない。

「……兄には、言わないで、ください」

 ぎこちない、途切れ途切れのアリアの言葉。ナタリヤの視線はアリアに向けられたままだったが、そこにあるのは優しく柔らかなものだった。

「そう。それじゃあ、私は出るから、今日はここにいてね。キッチンの鍋の中におかゆがあるし、冷蔵庫の中のものも好きに食べて大丈夫だから」

 そう言うと、ナタリヤは髪を結び、テーブルの上に置いてあった鞄を肩にかけた。

「それじゃあ、ゆっくりしていて」

「……ありがとうございます」

 アリアの返事にナタリヤは目を細めて笑い、そして部屋を出た。

「……私、は」

 アリアは、ベッドの上で膝を抱えて小さく座り、膝に額をつけて目を閉じた。

 外の雨の音が、小さな部屋に響く。

 

 ナタリヤがアリアを見つけたのは、警備の帰りだった。

 リーザス・ナーティロットに届いた予告状。ロジャー、ナタリヤ、カズヤは警備に参加できなかったが、独自でリーザスの関係者であるエルフォード・グロースのもとに向かった。しかし、ダンススタジオにあったのは、倒れていたエルの姿。

「リーザスを……助けて、ください……」

 エルの言葉を受け、ロジャーたちはリーザスが舞台を行っているホールに向かった。ホールの周りには避難した観客たちがおり、ロジャーたちはその合間を抜けてステージに行った。既にナイトメアは逃げ出したらしく、そこにいたのはリーザスだけ。ステージに近い一番前の席にぐったりと座っているリーザスだったが、外傷はなく、気を失っているだけだった。

 それから少しして、入り口に何者かが現れた。それを認識した直後、三人の意識は突然、白の中に消えた。

「皆さん、しっかりしてください」

 ナタリヤが目覚めたきっかけは、ジールの声だった。状況が把握できていない三人は、何が起きたかをジールから聞かされた。

「どうやらナイトメアはリーザスさんからアンクレットの宝石を盗んだようですね」

 ジールが視線を立ち上がったナタリヤたちから床に落とす。そこにあったのは、宝石がついていない銀の鎖だった。

「僕はステージに現れたナイトメアを追って屋上まで行ったのですが、彼の姿はありませんでした。僕が屋上まで行っている間に、ステージに戻ったかあるいは潜んでいたか……、その隙にリーザスさんから宝石を盗んだようです。そのときに、三人が入っていることに気付いて隠れた」

「それで、俺たちがリーザスに気を取られているのを確認して逃げ出そうとしたが、その瞬間を見られた」

「ええ。おそらく、いつもの奇術か何かを使ったのでしょうね」

 ロジャーが続けた言葉に、ジールが頷いてその続きを言った。

「……それで、あなたは」

「館内でナイトメアを探して、ステージに向かい、今に至ります」

 ナタリヤの問いに、ジールは眉をゆがめて申し訳なさそうに答える。本心かどうかわからない、その笑みで。

「彼にはまた逃げられてしまいましたね。皆さん、今日はもう、帰られてください」

「何?」

「ナイトメアにやられてしまって、疲れているでしょう。後の事は、僕に任せてください」

 ジールはちら、と視線をリーザスに向ける。何か言おうとしたナタリヤだったが、それよりも先にロジャーが口を開いていた。

「……ナタリー、カズヤ、お前らは帰れ。俺は、確認したいことがある」

「先輩、それなら私も」

「いい。……お前らは、戻るんだ」

 ナタリヤの前に、ジールと向き合うようにロジャーは立った。ジールはゆっくりとロジャーを見て、微笑む。

「そうですか。ですが、あまり無理はなさらないでください」

 ロジャーとジールの間に漂う空気は、不穏。ジールのことを全く信じていないロジャーの感情と、誰にも手の内を明かさないジールの笑みが、澱んだ空気を生み出していた。

「――僕たちは、『仲間』なのですから」

 

 ロジャーに言われるまま、ナタリヤとカズヤはその場から去った。ナタリヤは雨が降る薄暗い道を、歩いていた。

「……あの男、何を考えているの?」

 仲間、と言っていた時のジールの表情。いつもと変わらぬ笑みなのに、微笑みの奥に閉ざされた瞳は何を映しているのかナタリヤには理解できなかった。微笑んでいるはずのジールの笑みは、いつも何かを拒絶していた。

「……、私にできることは何もない……」

 小さく息を吐き出したナタリヤは、自分の視線が地面に落ちていたことに気付いた。顔を上げると、薄く光る街灯の下に、誰かがいるのが見えた。

「……あれって」

 顔を俯かせているツインテール、胸元に光る十字架。それを見て、ナタリヤは街頭に駆け寄っていた。

「アリアちゃん?」

 ナタリヤが声をかけると顔を俯かせていた少女――アリアはゆっくりと顔を上げた。雨の中だというのに傘をさしておらず、全身濡れていた。それは、顔も同じ。うつろな表情を浮かべるアリアに、ナタリヤは疑問を投げかける。

「どうしたの、アリアちゃん。こんな時間に……傘は?」

「ナタ……リヤさん……」

 ナタリヤの問いに答えなかったアリアの口から漏れたのは、かすれた声だった。

「アリアちゃん? しっかりして。どうしたの?」

「私、は……」

 それだけ言うと、アリアは静かに目を閉じ、そのまま前に倒れこんだ。ナタリヤは傘を投げ捨て、アリアの体を受け止める。

「アリアちゃん? アリアちゃん!! しっかりして、アリアちゃん!!」

 それが、昨晩の出来事だった。

 

 

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