聞きなれた大きな声。アオは視線をアイヴァンから声がした正面の扉の方に向けた。

「ハリー……!」

 そこに立っていたのは、いつも見ていた少年――ハリアル。緊迫した空気には似合わない、いつもと同じ笑みを浮かべたハリアルがアオに向かってピースをしていた。

「待たせたな! さて、さっさと帰ろうぜ!」

「帰る? アオ様の帰る場所は貴方たちの所、と言いたいのですか?」

 ハリアルの言葉に反応したのはアイヴァンだった。ハリアルの方を向き、微笑みながら尋ねる。

「うん。だって、アオは俺たちの仲間だし」

「全く、貴方は不可解な発言ばかりを繰り返されますね。そのようなことですから、アオ様にも悪影響を与えるのですよ」

「ん? 何それ、俺がアオにとって悪影響ってこと?」

 ハリアルはとぼけたように言うと、アイヴァンの表情から笑みが消えた。

「……私は、同じことを二度言うことは嫌いなのですよ。ハリアル・マティルア」

 冷たい黄土色の瞳は、ハリアルを貫くように向けられる。しかし、ハリアルはその視線にも動じず、真っ直ぐにアイヴァンを見ていた。

「よくわかんねえけど、アオは返してもらうぞ。いいな?」

「ええ。彼女が望むのなら……ね」

 アイヴァンは再び微笑むが、それは先ほどまでのものと明らかに違う。悪意の満ちたアイヴァンの笑みを、アオは背中を見ているだけでも感じていた。そして、アイヴァンは右手を静かに天井に向ける。

「起動しなさい“ネコノメ”」

 ぱちん、とアイヴァンが指を鳴らす。

 直後、

「きゃあああああああああっ!!」

「アオ!!」

 アオの全身に電流が駆け巡る。先ほどまでとはまた違う電流で、少しずつ威力が弱まっていくようにアオには感じられた。が、それと同時に自分の意識が消えてゆくことも感じていた。

「は、ハリー……」

――助けて

 アオの言葉は、続かなかった。

「アオ!!」

 がくん、と首を落としたアオを見て、ハリアルが走り出す。

「攻撃しなさい“ネコノメ”」

 アイヴァンは走ってくるハリアルに向かって人差し指を向ける。すると、アオはゆっくりと顔をあげた。がしゃん、と大きな音がしてアオの手と足を固定していた枷が外された。着地したアオは、ハリアルに向かって走り出す。

「ア」

 アオ、とハリアルが名前を呼ぶよりも先に、腹部に強い痛みを感じるのが先だった。どっ、という鈍い音がしたと同時に、ハリアルは講堂の入り口側の扉に叩きつけられていた。

「ぐあっ?!」

 何が起こったか把握するよりも先に、ハリアルの視界にアオが入ってきた。アオは無表情で、ただ黄金の瞳を強く光らせていた。そして、アオはハリアルの胸倉を掴み地面に叩きつける。

「あぁっ?!」

 鈍い音がハリアルの全身に響く。それでもアオは、無表情だった。

「て……めぇ、アオに……な、に……し、た……?!」

 ハリアルはうつぶせの状態から、顔をあげてアイヴァンを睨む。アイヴァンはハリアルを見下して笑っていた。

「全く、理解が悪い人ですね。私は、彼女の能力を最大限に活用しているのですよ」

「の、う……りょく……って……」

「彼女は完全に“ネコノメ”として覚醒しました。これが、本来彼女にあるべき姿だったのですよ」

 本来あるべき姿。アオは無表情でどこを見ているかわからないような瞳で、顔だけはハリアルの方を向いていた。

「“ネコノメ”、それは教会軍の最高兵器。ですが、今まで十分に機能しなかったのは、それが人の中にあるということが原因でした。人間には理性というものがありまして、『人を殺す』ということに抵抗が大きく生じてしまう場合が多いのです。だからこそ、その理性を消すことによって最大限の能力が獲得できます。だから、今の彼女こそ、“ネコノメ”としてあるべき姿なのですよ」

「……んなこと……」

 と、ハリアルが立ち上がろうとした瞬間、背後からアオの回し蹴りが打ち込まれる。無防備の状態だったハリアルは受け身も取れず、地面をごろごろと転がり、先ほどまでアオがはりつけられていた十字架に叩きつけられた。

「加えて説明してあげましょう。現在“ネコノメ”は貴方――ハリアル・マティルアを敵として認識しています。そして“ネコノメ”は敵を殲滅するまで攻撃を続ける。これで貴方が今、どのような状況にいるのか理解できましたね?」

「さあ、ね……」

 ハリアルは立ち上がり、アオに向かって走り出した。アオも同様にハリアルに向かって走り出す。

「アオ、俺だ!!」

 ハリアルが叫ぶが、アオは止まらない。ハリアルに向かって拳を向けた。

「アオ!!」

 アオの視界には、敵としてのハリアルしか見えない。感情という感情は全て打ち消されている、はずだった。

 アオの視界の中に、翡翠色のペンダントが入った。

――ハリー!!

 ハリアルの耳に、アオの声が届いた。

 どっ、という音がしてハリアルとアオはぶつかり合った。それを見て、アイヴァンは勝利を確信した笑みを浮かべる。今の一撃で、ハリアルは倒れるだろう、と信じていた。

「……ハリー」

 しかし、アイヴァンの表情はその声で一気に消える。はっと驚いたような表情のアイヴァンは、その光景の情報をかき集めようとするように大きく目を開いた。

「何故だ……。何故、機能を停止した?!」

「……だって、お前の言うのは、アオのあるべき姿じゃねーもん」

 アイヴァンの疑問に答えたのは、ハリアル。アオが振り上げてきた拳を、しっかりと手で掴んでいた。しかし、ハリアルの手は真っ赤に染まっていて、ぽたぽたと血が滴っていた。それを見たアオは、表情を歪ませた。

「ハリー……ごめんなさい……。でも、もう……私、ハリーを傷つけたくない……。だから」

「だから?」

「……私を置いて、逃げて」

「何で?」

 きょとん、とした様子でハリアルはアオに聞き返した。

「何で、って……。だって、私、ハリーを傷つけたんだよ?! こんな風に、また、ハリーや、みんなを傷つけちゃうかもしれないのに!! 一緒にいたら、大変な思いさせるかもしれないのに!!」

「わかんねーじゃん、そんなこと」

 そう言うと、ハリアルはアオの手を離し、血のついた手のままでアオの頬を両手でしっかりと掴んだ。

「アオは、俺たちと一緒に居たくないのか?」

「一緒にいたら、傷つける……」

「そうじゃなくって! お前は、俺たちと一緒に居たくないのかって聞いてるの! 傷つけるとかどうこうとかじゃなくってさ!!」

 頬に触れるハリアルのぬくもり、震えるアオの瞳。アオの答えは、決まっていた。

「……一緒に、居たい」

「うん」

「私……、ハリーたちと一緒に船に居たい」

 言い終える頃には、アオの目から大粒の涙がこぼれていた。ぼろぼろと落ちる涙を見て、ハリアルはふっと微笑んで、傷ついていない方の手でアオの頭を撫でた。

「わかった。じゃあ、一緒に船に戻ろう」

「う、うん……!」

「って、ことだから。アイヴァン、アオは返してもらうぞ」

 ハリアルの言葉を受けたアイヴァンは、完全に表情を無にしていた。それは、先ほどまで攻撃を続けていたアオのものと酷似している。

「返却、というのは本来あるべきところに戻るという意味です。つまり、“ネコノメ”は貴方がたの手の内にあるべきだと、いうのですか?」

「いや? 俺が取り戻したのは“ネコノメ”じゃない」

 アイヴァンの問いに、ハリアルはアオを抱き寄せて答えた。

「俺は、仲間――アオを取り戻しに来たんだよ」

「……ハリー」

 アオは頷いて真っ直ぐにアイヴァンを見つめた。

「私が帰る場所は、ハリーたちのいるところです。ここでも、教会軍でもない、私を私として受け入れてくれるところなんです!!」

「……全く」

 そう呟くと、アイヴァンは突然二人の視界から姿を消した。ハリアルは驚いたように目を開いたが、隣にいたアオはアイヴァンの行動を理解していた。

 ハリアルの背後からバシッという強い音が響く。ハリアルに向かって殴りかかろうとしていたアイヴァンの手を、アオが受け止めていた。

「アオ!!」

「うっ……」

「ほう……、完全覚醒していなくてもこの能力とは。ですが、理性を持つが故の弱さに、貴方はまだ気付いていない」

 アイヴァンが言うと、黄土色の瞳が黄金に輝く。突然の変化にアオが驚きの表情を浮かべた直後、アイヴァンの膝蹴りがアオの腹に入った。

「あぁっ?!」

「アオ!!」

 吹き飛ばされたアオに視線を向けかけていたハリアルだったが、視界の端に入ってきたアイヴァンの拳を見て、すぐに身体を屈ませた。そして、アイヴァンの足に向かって蹴りを入れようとしたが、すぐに姿が消える。

「なっ?!」

「遅い」

 上方からアイヴァンの声が聞こえた。ハリアルが顔をあげると、跳躍して右足を高く上げているアイヴァンの姿があった。

 どぉん、と大きな音がして、周辺の床が壊れて埃が立ち上がる。音を聞いたアオは身体を起こし、先ほどまで自分が居た方を見た。

「は……ハリー?!」

 埃の様子からしてかなりの衝撃が叩きつけられたはず。それを直に受けたとしたら無事であるはずがない。アオは泣きそうな顔をしてハリアルの名を叫んだ。

「おーう、こっちだー」

 しゅっ、と音がしてハリアルはアオの隣に飛び降りてきた。予想していない方向からの登場に、アオは混乱していた。

「は、ハリー?! どうしてここに?!」

「ん? これこれ」

 そう言ってハリアルは天井を指さす。天井から細い銀色の糸が釣り下がっており、それを使ってアイヴァンの攻撃を回避したことがわかった。

「す、すごい……」

「まあな!」

「ハリアル・マティルア」

 穏やかになりかけていた空気を打ち砕くように、アイヴァンの低い声がハリアルの名を呼ぶ。ハリアルとアオは埃の上がっている方を向いた。そこにうっすらと人影と、黄金の輝きが二つ見える。

「……お前は邪魔な存在だ、消えろ」

「うわ、全然キャラ違うじゃん。それが、理性がなくなったって、ヤツ?」

「何度も言わせるな。私は同じことを言うことが――嫌いだ」

 どっ、と地面が強くえぐれるような音がして埃の中からアイヴァンの姿が現れる。跳躍してきたアイヴァンに向かってハリアルは走り出した。

「ハリー?!」

「アオ! 実は俺、ちょっと怒ってんだよ!」

 まるで怒っているようには感じられない口調で、ハリアルはアイヴァンのほうを向いたままアオに言う。

「前にアオ、教会の人間は傷つけないでくれって言っただろ? でもごめん! 今は無理だわ!!」

 無表情のアイヴァンは咆哮のような叫び声をあげてハリアルに向かってきている。一方のハリアルもアイヴァンを、睨んでいた。

「こいつは、俺の仲間を傷つけたんだからな!!」

 ひゅん、と高い音がすると同時にハリアルの姿は消える。

「だからボコる!!」

 アイヴァンの背中に、天井からつるされた糸に捕まっていたハリアルの踵落しが直撃した。ごきっ、という鈍い音がしてアイヴァンは強く地面に叩きつけられる。

「がぁっ?!」

 悲鳴を上げたアイヴァンにとどめを刺すようにハリアルが上に乗った。

「き、さま……!!」

「何だ、まだ動けんのか」

 アイヴァンの意識があることを確認したハリアルはぴょん、と飛び降りてアイヴァンの前に立つ。アイヴァンはふらふらと身体を揺らしながらも、立ち上がった。

「す……お前……を……け、……す……」

「かかって来いよ」

 ひゅうひゅうと高い呼吸をするアイヴァンに対し、全身傷だらけのハリアル。どちらかが一撃を食らったら、決着がつくような状態だった。

「ああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 再び咆哮のような、悲鳴のような叫び声を上げるアイヴァンは、ハリアルに向かって拳を握り走り出す。ハリアルはその場を動かずに、アイヴァンを睨んでいた。

「ハリー!!」

 アオが叫ぶ。ごっ、という鈍い音がまた響く。

「ぐあぁっ?!」

 アイヴァンの拳をすれすれのところで避けたハリアルは、アイヴァンの鳩尾に拳を入れていた。アイヴァンの口から大量の血が溢れ、そして、地面に倒れる。

「……はあ」

 そこでようやく、ハリアルは肩を下ろした。ゆっくりと振り向いて、アオの方を見る。

「アオ、帰ろうぜ」

 にっこりといつもと同じ笑みを浮かべるハリアルを見て、アオも安堵の笑みを浮かべた。が、

「あ」

 そんな間抜けな声を上げたハリアルの身体は突然傾いた。ハリアルが最後に見たのは、驚いた表情を浮かべて自分に駆け寄ってくるアオの姿だった。

 

 

「……あれ?」

「ったく、やっと目を覚ましたよ」

 ハリアルが目覚めると、そこは見慣れた自分の船の中だった。自分が寝ているベッドの横には、呆れ顔をしたアイリが椅子に座っている。

「アイリ?」

「そうだよ。船員の名前も忘れちまったのか?」

 相変わらずの言いように、ハリアルはふっと笑った。

「大丈夫。俺、記憶力良いから」

「どうだか。じゃあ、クレイズ呼んでくるよ」

「あ、なあ。アオはどうした?」

 立ち上がって部屋から出ようとしたアイリにハリアルは尋ねる。アイリは驚いたような顔をして、それから笑った。

「な、何だよ?」

「いやあ。お前ら、全く同じ反応するんだからなあって思ってな」

「同じ?」

 アイリの言葉の意味がわからずハリアルは聞き返す。

「アオも起きてそうそうお前の心配してたんだよ」

 そう言うと、アイリは部屋を出た。それから入れ替わるように入ってきたのは、アオだった。

「ハリー……」

 不安げな表情を浮かべるアオを見て、ハリアルは安堵の表情を浮かべる。しかし、それに気付いていないアオはいつも通りのおどおどとした口調で「あの、そのっ……」と何か言いたそうにしていた。が、それよりも先にハリアルが口を開いていた。

「アオ」

「あっ、はい!」

「おかえり」

 ハリアルの言葉を聞いたアオは驚いたような顔をした。しかし、すぐに表情を緩めて穏やかに笑って言った。

「ただいま、ハリー」

 

 それからハリアルはアオやクレイズから事情を聞かされた。

 倒れたハリアルを連れてきたのはアオだったこと。白装束の男たちは全員アイリとクレイズで倒したこと。そしてアオとハリアルはあの事件から三日間眠り続けたこと。その間に施設の関係者たちはISFによって逮捕されたこと。

「ISF? って、セーギたちのところじゃん。何で?」

「非人道的な実験を何度も繰り返していたことに対して、らしい。教会軍も奴らの存在を認めていないとか何とか言ってごまかしている」

「ふーん……?」

「あの、ハリー? わかってる?」

 クレイズの言葉にあいまいに相槌を打つハリアルを見てアオが尋ねると、ハリアルは満面の笑みを浮かべて答えた。

「全然わかんねえ!」

「……要するに、あいつら悪いやつだったってことだよ」

「そりゃそうだよなあ。俺の仲間に手、出したもん。いいヤツなはずないじゃん」

 きっぱりというハリアルに、クレイズとアイリは呆れたようなため息を吐き出す。アオは、嬉しそうに笑っていた。

「うん、そうだね」

「そうって……。あーあ、アオまでハリー思考になっちまったよ」

「ま、俺たちの船長様だからな。仕方ない」

「何だよそれー。俺の思考で何が悪い!」

「バカになる」

「何だよ! リーズもアイリも二人揃って言いやがってー!!」

 じたばたとベッドの上で暴れるハリアルの頭をアイリが押さえつけて動かないようにする。クレイズは「リーズって言うな」とハリアルの額を指で弾き、それを受けてハリアルがぎゃあぎゃあと騒ぐ。その光景を、アオは楽しそうに笑いながら見ていた。

「アイリもクレイズも、まだハリアルは怪我が治ってないんだからダメだよ。ハリアルも暴れちゃダメだって」

「だってー!!」

 

 こうして騒々しい船は、また海を進むのだった。

 

 

 

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