Story five 君の名を呼び続けよう
幼い頃、突然その少女は俺の目の前に現れた。穏やかで物静かなその表情はわかりやすいほど「お嬢様」を表していた。
少女は、俺の婚約者だと名乗った。その時、俺も彼女も「婚約」という意味をよくは理解していなかった。そして、ある日彼女が言った。
「私と晴時さまは、結婚をするって、お母様が言っておりましたの」
結婚、その言葉でやっと意味を理解した。けれど、結婚というのはあまりにも遠い未来過ぎて、俺は深く考えていなかった。
けれど、彼女は違う。
俺との結婚を本気で考えていたようで、けれど、俺があまり考えていないのを知らなかった。彼女は、本気で俺と結ばれると信じていたのだ。
その日、俺は親父から聞いた。
「幸橋の家とはもう関わらないように。」
彼女は俺の目の前で泣いていた。
「もう、違うのですか・・・?」
全てを信じていた彼女は、そう言っていた。俺がどうしようも出来ないことだ。
「何で、もう違うのですか・・・私は、貴方が好きなのに・・・」
何も、言えない。彼女は小さく俯き、苦しそうに言った。
「だから・・・さようなら・・・」
でも、ただ一言俺はこう言った。
「ごめん・・・」
俺の中には彼女が居た。気付かない間に、俺の中の彼女はとても、とてもたくさん居た。
「・・・さよなら」
その日、俺は彼女に別れを告げた。
ぞくりと、背中が震えた。時刻は7時。部活が終わって、あたりは暗くなっている。
「何だ・・・?」
周りを見ても、何もない。この感覚は、あの時図書室で感じたようなものと一緒だった。
「・・・PoPだ。」
低い、無感情な声が聞こえる。俺の隣に、アーディスが現れていた。
「やはり集まりやすいな・・・学校だ。」
アーディスはすっと後ろ・・・学校のある方向を見た。何となくだけれど、俺もその冷たい感覚を覚えた。
「マジかよ・・・」
「強力だな・・・気持ちの悪いぐらい。」
真っ暗な空間に、俺は居た。ここはきっと、夢の中なのだろう、と思った。
「晴時さま・・・」
先ほどまで聞いていた、あの声が聞こえた。振り向くと、苦しげな表情の泉が居た。
「・・・晴時・・・さ、ま・・・っ」
ぼろぼろと、涙を流している。何故、泣いているんだ。
「わ、た・・・の・・・・・・え、・・・よん・・・・・・」
言葉が、聞こえない。
「せい・・・じ・・・・・・さ、ま・・・」
その瞬間、泉が闇にきえた。はっとなり、俺は泉の手を掴もうとしたが、届かなかった。そうか、俺が。
「・・・俺が・・・」
空を掴んだこの手が、冷たい。泉の声が、響く。
「・・・晴時、さま・・・」
「何とか入れたな・・・」
ぎりぎり学校が閉まる前だった。俺は無事に学校に入ることが出来た。
「ああ、感じる・・・」
後ろに立つアーディスがじっと廊下の向こう側を見つめる。その先には真っ暗な闇が広がっている。
「・・・気持ち悪いな。」
「ああ。」
アーディスが小さく頷き、歩き出す。そして、小さく後ろ・・・俺のほうを見た。それは、来いと言うつもりなのか。
「・・・わかってるよ。」
諦めのように俺はそう言って、アーディスの背中を追う。アーディスは階段を上っていく。
「何処まで行くつもりだ?」
誰も居ない校舎に響く声は、自分のものだとわかっていても不気味なものだ。
「上だ・・・」
すっと、天井を見上げてアーディスが言う。アーディスの言葉は、全く校舎に響かない。これが、この世のモノで無い事を示しているのだろう。
「上・・・って事は、屋上か」
俺がそう言っている間にも、アーディスはすたすたと進んでいた。走って追いかけようとしたが、走った音が響く心配があるので走れなかった。
何段か階段を飛ばしてアーディスを追いかける。
「・・・夢・・・?」
そういえば、家に帰ってすぐに寝た。だから、あんな夢を見たのだろうか。目元に触れるとまた、涙が。
「泣いてんのか・・・俺・・・」
呟いて、目に手を当てる。何時から俺はこんなに涙もろくなったんだろう。目を閉じると、あの悲しげな泉の表情しか出てこない。
「・・・泉、何処行った・・・?」
自分で言って意味がわからなくなった。何を言っているんだ、俺は。その時、部屋にノックの音が響く。
「晴時・・・」
「はい?」
起き上がって、母親の顔を見る。何か、不安げな表情をしている。
「幸橋の・・・泉ちゃんが、帰ってこないって・・・晴時、何か知ってる・・・?」
その言葉で、全身が冷えた。
「何か、わかるか・・・?」
屋上へ向かう扉に着いて、アーディスはじっと見つめ続けている。俺が尋ねたが、アーディスは何も答えない。
そして、静かに扉に手を向けた瞬間、扉が静かに開いた。
「・・・そこに居るな、PoP。」
静かな声が、俺の頭の中に響く。アーディスの視線の先には、何かが居る。視線と同じ方を見ると、そこには、
「何で・・・」
「・・・」
光を映さない瞳の、幸橋が立っていた。まるで全てを失ったかのような悲しげな表情の幸橋は、フェンスの向こう側に居た。
「・・・!幸橋!?」
俺の声に反応したのか、幸橋はこちらを見た。その後ろには、黒い影のようなものがある。
「何だ・・・あれ・・・」
「PoPだな。」
アーディスが静かに答える。そして、手を伸ばそうとした瞬間、アーディスが一瞬動きを止めた。
「・・・何・・・」
「どうしたんだ・・・?」
アーディスは俺のほうを向かず、じっとPoP・・・いや、幸橋を見つめながら言った。
「少しでも動いたら、あの女を落す、そうだ・・・」
走っていた。泉は、あそこに・・・学校に居ると何故か感じていた。母親の制止を振り切って、真っ暗な道を走った。
そして、学校にたどり着いた。校門はどうやら閉鎖されていない。
「泉・・・」
校舎を見上げると、そこには、泉が居た。
「何であんなところに・・・」
屋上のフェンスを越えたところに、泉はフラフラと立っている。そして、泉はこちらを向いた。
「っ・・・!!!」
あのままでは、泉が落ちてしまう。俺は急いで屋上へと向かった。
「あれはPoPの意志だけではない様だな。多分、あの女の意志も含まれている。」
アーディスの言葉の意味が、わからなかった。それは、つまり幸橋自身が落ちようとしているのか?
「狙いは、お前・・・ではなさそうだな。」
「俺じゃない・・・?じゃあ・・・」
もしかしてと俺が言いかけた瞬間、後ろからバンッという強く扉が開かれる音がした。
「水市・・・!」
肩で息をする、水市がいた。水市は何も言わず、進む。
「待て、水市!!」
「来ないで!!!」
俺の制止とほぼ同時に、幸橋が叫んだ。
「・・・いや・・・嫌だ・・・」
幸橋は目に大量の涙を溜めながら、水市を見つめている。体が、僅かに震えている。
「・・・お前・・・何やってんだ・・・」
「嫌だ・・・もう、嫌です・・・」
「戻ってこいよ・・・」
水市はフェンスの手前まで歩いていた。そして水市は、フェンスを強く掴む。その音が、夜の空に響く。
「戻って来い!!」
「嫌っ!!!」
幸橋は叫んだ。その瞬間、黒い影が幸橋を包み込んだ。
「幸橋?!」
「まずい・・・乗っ取られたか・・・!!」
アーディスが小さく叫ぶ。何となく、アーディスのまずい、という言葉の意味がわかった。その時、水市が、フェンスを乗り越えた。
「水市!?お前、何してんだ!!」
「しっかりしろ!!!」
水市は幸橋の肩をしっかりと掴んで叫んだ。何度も何度も、叫んでいる。
「・・・もう・・・違うのでしょう・・・」
ぼろぼろと、幸橋の瞳から涙が溢れた。
「・・・っ、何が変わったんだよ・・・何にも変わってねぇだろ・・・」
「あなたと、私はもう・・・関係もないのでしょう・・・」
そして、幸橋が水市の腕を振り切って、走り出した。
「さようなら・・・晴時さま・・・」
そう言って幸橋は、一歩下がった。その瞬間、幸橋の体が傾く。
「泉!!!!!!!!!」
水市が、幸橋に向かって手を伸ばした・・・・・・・・・
「名前を・・・呼んでください・・・」
ぼろぼろと、涙を流しながら泉が言った。その涙は、とても幸せそうに輝いている。
「もう一度、呼んで欲しかったのです・・・」
黒い影が涙に当たって、消えた。俺は、泉を強く抱きしめた。
「ごめん、な・・・」
「私も・・・晴時さまを傷つけて・・・」
「もう、いいよ・・・」
泉が俺の目元に手を伸ばす。泉の指には、輝くものが乗っていた。
「晴時さまも、泣かないで下さい・・・」
「幸橋!!!水市!!!」
俺の叫びが、空に響く。二人が落ちる、と言ったときにアーディスの力によって二人は助けられた。だが、二人は目を覚まさない。
「安心しろ、気絶しているだけだ。」
「よかった・・・」
少し安心した。その時、二人の目元に涙が溜まっていることに気付いた。
「・・・そういえば、PoPは?」
「消えたようだ。」
アーディスは夜の空をじっと前を見て言った。嫌な気配は消えている。
「・・・そのままにしておけばいずれ目が覚める。」
そう言って、アーディスは屋上を去っていた。その背中を慌てて俺は追いかける。
気絶していた二人だが、手だけはしっかりと握られていた。
これが、愛の力って奴だろう。