小野勇と白い子猫
「ああ……疲れたなあ……」
公園の入り口で、小野勇は大きな伸びをしながら言った。それから体を前後に曲げて、もう一度伸びをする。大きく息を吐き出す姿は、言葉どおりに疲れているようだった。
「全くもう、俺が何したってワケ? 俺、超健全なのにさあ」
と言う勇の周りには、中学生(主に勇より上の、中学三年生)が数名倒れていた。勇がもう一度息を吐き出すと、視界の中に、白い何かが見えた。
「あ!」
勇が白い何かのほうを向くと、そこには子猫がいた。それを見た勇の表情が、先ほど疲れきった表情から元気が溢れ出そうなものとなる。勇は猫に近づくと、手を差し出した。猫は一歩も引かず、逃げる様子はない。
「おいでー、猫ー」
にこにこと微笑みながら勇が猫に声をかけるが、猫は何も反応しない。ただ、じっと差し出された勇の手を見つめているだけだった。
「どうした? お前、元気ないのか?」
反応しない猫に勇はもう一度声をかけるが、やはり猫の反応はなかった。猫をよく見ると、どこかやせているように見えた。勇は決心したように頷いて、猫を抱えた。
「うち行くぞ、うち! 何か食わせてやる!」
大きな声で宣言する勇に対し、猫は数回瞬きをしていた。
***
「あ、お兄ちゃん。今まで何してたの?」
家に着いた勇は、声をかけられてびくりと震えた。背後から声をかけてきた妹の優子に、なるべく正面を向けないようにして返事をする。
「お、おう……ちょっと、散歩……」
「散歩って、なんか年寄りくさーい」
「う、うるせぇな」
若干引きつった表情を浮かべながら勇が答えると、優子は小さく首をかしげた。
「お兄ちゃん、変」
「え?!」
「もしかして、何か隠してる?」
優子の、まさに的を射た言葉に勇はさらに表情を引きつらせる。ぴくぴくと不自然に動く頬の金を見て、優子は少し目を細めた。
「やっぱり、そうでしょ」
「ナ、ナンノコトヲイッテルンダー?」
「カタコトじゃないの!!」
そして、とうとう優子は勇の肩を掴んだ。
「いっ?! 痛い、痛い、痛い!!」
「何を隠してるの?! 言いなさい!」
ぎりぎりぎりと不気味な音を立て始める勇の肩。優子はにっこりと満面の笑みを浮かべている。それに対して勇は泣き出しそうな顔になっていた。このあたりで有名な不良である『長月の鬼』が自身より年下の、それも女の子に負けている姿というのは、見る人から見れば驚きの光景となるだろう。
「ゆ、優子!」
「何よ!」
「お前、今日は裕太と出かけるんじゃなかったのか?! もう時間だろ?!」
勇が叫ぶと、優子はぱっと手を放した。優子の表情は驚いたようなものとなる。
「そうよ! 私、もう行かなくちゃ!」
その言葉を聞いた勇はほっと胸をなでおろした。優子は慌てた様子で玄関を出た。
「じゃあお兄ちゃん、ご飯は自分で作ってね! 母さんも父さんも仕事でいないから!」
「おーう」
「それじゃ、行ってきます!」
ばたばたと走って去る優子の背中を見た勇は、安堵のため息を吐いた。そして勇はしゃがんで、ずっと抱えていた猫を床に降ろした。
「よく鳴かなかったな。偉いぞ、猫!」
勇はにっと笑って猫の頭をなでる。猫はどこかぼーっとした表情で、勇を見ていた。そんな猫を見て、勇の顔がふにゃりと緩くなって、幸せそうな笑みになる。
「あー、猫最高! もー、かわいいなあ猫ー!」
そういって勇は猫の頬を自分の頬で撫でる。猫は相変わらず表情を変えぬまま、勇のされるがままになっていた。
「でも猫、猫って呼ぶのも変だもんなあ……。お前、何か呼んでほしい名前あるか?」
緩みきった笑顔で、勇は猫に尋ねた。もちろん、そんな風に尋ねたところで猫が答えるはずもなかったが、勇は猫が返事をするのを待っていた。猫は何度か瞬きをしたあと、口を開いた。
「あー」
「そっか、あーちゃんか!」
猫の声をさえぎるように、勇が大きな声で言った。猫が少し驚いたように目を大きく開いたが、勇は全く気づかずに「そっかそっかー!」と猫を抱え上げてくるくると回る。
「よし、じゃああーちゃん! お前、腹減ってるだろ?!」
そう言って、勇は猫を抱いて台所へ向かう。冷蔵庫を開き、中身を猫と一緒にのぞいた。
「えーっと、とりあえずあーちゃん用にミルクとー、あとー……あ! プリンあるじゃん!」
勇は猫を床に置き、牛乳とプリンを取り出した。瞬間、猫のやる気の無かったかのような表情が明るくなった。が、そんな猫の変化に気づかない勇は皿を取り出してそこに牛乳を注いで、猫に差し出した。
「ほら、あーちゃん。思う存分、飲め!」
しかし、猫の視線は皿でもなく、勇でもなく、テーブルの上にあるプリンだった。ミルクを目の前にして何の反応もしない猫に対して、ようやく勇は不思議に思ったらしく、首をかしげて猫に声をかけた。
「あーちゃん? どうしたんだ?」
猫はじっと、プリンを見つめている。勇はゆっくりと首を動かして、視線を猫と同じ方向に向けた。
「もしかしてお前、プリン食べたいのか?」
勇が尋ねると、猫はこくりと頷いた。なるほど、と納得した勇は皿に入れていた牛乳を自分で飲み、その皿にプリンを置いた。瞬間、猫の表情がぱあっと明るくなった。それから恐る恐るというようにプリンに顔を近づけて、小さな舌で舐めた。
「いいんだぜ、あーちゃん。プリンにかぶりついても、俺は怒らないぜ」
にっと歯を見せて勇が笑う。勇の顔を見た猫は、しばらくそのままじっと勇を見つめていた。ぱちぱちぱちぱち、と何度か瞬きをした後、猫はプリンを食べ始めた。
プリンを食べ終えた猫は、勇によって勇の部屋に連行されてしまっていた。
「あー、癒されるわぁ……。何かさあ、猫って癒しオーラ発しまくりだよなあ」
うっとりとした表情で、勇はベッドに置いた猫を見つめていた。そんなうっとりとした視線を送られている猫は、居心地が悪そうに首元を後ろ足で掻いている。
「あーちゃん可愛いなあ……。癒されるぜ、あーちゃん……」
これが長月の鬼と呼ばれる、巷で噂の不良少年の実態である。彼に勝負を挑んだ不良たちがこの姿を見たら、果たしてどう思うだろうか。
そのとき、家のチャイムが鳴り響いた。
「ん? こんなときに客か?」
そう言って勇は、少し表情を曇らせて部屋を出た。猫は顔を上げて、あたりを見る。猫の視界に、開かれたままになっている窓が見えた。
それから数分後、勇が部屋に戻ると、
「あ、あーちゃん?!」
ベッドにいるはずの猫の姿はなかった。部屋中を探すが、その白い姿は見当たらない。そして開かれたままになっている窓を見て、勇は「ああ……」と悲しげな声を上げた。
「そっか、出ちゃったか……」
窓の外を見て、勇は呟く。しょぼくれたような顔をしていた勇だったが、首を左右に振ってすぐに笑みを浮かべた。
「ま、どこかで会えるよな!」
***
「また、力使いすぎやがって……」
啓也は、家の前にいた白い猫を見て大きくため息を吐き出した。猫は啓也の姿を認めると、ぴょんと啓也の胸に向かって飛び込んだ。啓也が驚いた顔をした瞬間、猫は銀色の光に包まれ、姿を変えた。
「お前がそばにいなかったのが悪い、啓也」
「あーのなぁ……」
啓也に抱きつく銀髪銀目の白フード、アーディスは(元から無表情なのもあるが)全く悪びれた様子もなく、啓也の苛立ちにも気づいていない。
「とりあえず離れろ! ったく、いつまでも猫気分でいるな!」
「何が問題だ」
と、言われると何が問題なのかわからない啓也。言葉を出そうとしている啓也を見て、アーディスはようやく離れた。
「で、でもいいことはないだろ。お前、元はその姿なんだから」
「……いいこと」
啓也の言葉に、勇の姿を思い出したアーディス。
「いいことは、あった」
「……は?」
それ以上は語らない、というアーディスの様子を見て啓也はぽかんとした表情を浮かべる。
「どうしたんだ、あいつ……?」