見えた未来と見えない過去

 

 その朝、瑛子はいつもと同じように愛犬に挨拶をした。

「おはよう、リリー」

 ここ最近、うつ伏せで寝ていることの多いリリーを少しだけ悲しそうに瑛子は見つめた。見た目だけで、リリーに元気がないことはわかった。昔は自分より大きかったはずのリリーが小さく見える。瑛子はリリーのそばにしゃがみ、そっとリリーの体に触れた。

「……そっか」

 柔らかなクリーム色の毛を撫でながら瑛子は小さく呟いた。そして、時計を確認するとゆっくりと立ち上がる。テーブルの上に置いてあった鞄を肩にかけ、玄関に向かった。

「瑛子、そろそろ時間でしょ」

「うん、行くよ」

 母の言葉に答えながら、瑛子はローファーに足を入れる。つま先をとんとん、と床で叩いて玄関まで見送りに来た母を見た。

「……ねえ、お母さん」

「うん?」

「今日はリリーに、優しくしてあげてね」

 苦い笑みを浮かべながら、瑛子は母に言った。

 

「おはよー、瑛子!」

「おはー」

 校門をくぐると、いつものように友人が声をかけて来た。それにいつものように返して、校舎に向かって歩く。

「ねえ、昨日のリアトーク見た?」

「あー、見逃しちゃった」

「えー?! すっごく面白かったのにー?! 瑛子の好きなあの芸人出てたよー」

「え、そうなの? あー、見たかったなあ……」

 友人の言葉が、頭に入ってこない。瑛子はぼんやりとした頭で返事を返しながら、ただ歩いていた。

「おはよう、瑛子ちゃん、茉菜ちゃん」

「あっ、朱月先輩!」

 友人の黄色い声で、瑛子の頭にぼんやりとかかっていた靄が少しだけ薄くなる。視線を友人から少しずらすと、その隣を歩く笑顔の光貴の姿があった。

「朱月先輩……おはようございます」

「瑛子ちゃん、どうしたの? 何か、元気ないみたいだけど」

 瑛子の言葉を聞いた途端、光貴の表情から笑みが消え、心配そうなものとなった。さすが、と思いながら瑛子は笑みを作る。

「いえ、ちょっと今日、調子が悪いみたいで」

「そうなんだ? あんまり無理しない方がいいよ。瑛子ちゃんが元気なくなると、俺も悲しいし」

「朱月先輩、それみんなに言ってませんか?」

 くす、と笑いながら瑛子の隣の友人が言う。光貴は「そんなことないよー」と軽く返している。

 このやりとりも、もう終わるだろうと思った時、予鈴が鳴り始めた。

「瑛子、やばい! 急がないと!」

「ああ、うん……」

「じゃあね、瑛子ちゃん、茉菜ちゃん! またねー」

 友人が瑛子の手を引き走り始める。光貴も二人に手を振りながら自分の下駄箱の方に向かって走っていた。瑛子はただ、ぼんやりとした瞳でそれを見ていた。

「転ばないといいけど」

 瑛子が呟いた直後、足元の段差に気付かなかった光貴が、躓いていた。

 

 その日一日、一体何をして過ごしたのだろうか。瑛子が気付いたら、一日の授業が終わっていた。

「瑛子ー、フリフリチキンのクーポンあるからさ、一緒食べて帰らないー?」

 ぼんやりと座ったままの瑛子に、すでに帰りの準備を終えた友人たちが声をかけて来た。

「ああ、ごめん。今日はいいや」

 友人たちの誘いを断り、瑛子は時計を見た。時刻は午後四時三十五分。今から帰っても、

「……」

 瑛子は小さく重いため息を吐き出してゆっくりと立ち上がる。ため息を吐き出したと言うのに、身体が嫌に重い。まるで、家に帰ることを拒んでいるかのように。

「……」

 それでも校舎は閉まってしまうし、部室である美術室に行ったところで作品を作るわけでもない。それならいっそ、帰ってしまった方がいいのだろう、と自分に言い聞かせながら瑛子は重い足を動かしていた。こんなにも、人間の体は重くなるなんて、瑛子は知らなかった。

「……どうして」

 それは、瑛子が今まで何度も自分に問いかけてきた言葉。その答えには、未だたどり着いていない。もしかしたら、一生たどり着くことはないのかもしれない。

 そう思いながら、瑛子はのろのろと家への道を歩いていた。体が重いと、頭も俯く。ずっと地面ばかり見て歩いていた瑛子は、家の近くになってようやく顔を上げた。

「……あれ」

 そこに、見慣れない人物が立っていた。黒い髪に黒い学ラン。夕暮れ時の影よりも黒いその人物を、瑛子は知っていた。

「月読先輩」

 瑛子が名を呼ぶと、庭の方を見ていた夜維斗がゆっくりと顔を瑛子に向けた。真っ黒い瞳は、瑛子を見つめていた。

「どうしたんですか、先輩。先輩の家って、こっち側じゃないですよね」

「……野暮用だ」

 息を吐き出しながら、夜維斗は瑛子の問いに答えた。

「野暮用?」

 夜維斗がわざわざ自分の家と反対側にある自分の家に来る用事などあるのだろうか、と思いながら瑛子は夜維斗の言葉を繰り返した。夜維斗は小さく頷き、瑛子の顔を見た。

「ひどい顔してるぞ」

「へ?」

 唐突に言われて、瑛子は反射的に自分の頬に触れた。まさか夜維斗がそんなことを言うとは思っていなかった瑛子は裏返ったような声を上げていた。

「お前がそんな顔してるせいでこっちも困るんだよ」

「……どうして、月読先輩が?」

「リリー」

 はっと、瑛子の目が大きく開かれた。どうして、彼がその名前をと尋ねるよりも前に夜維斗が口を開いていた。

「ありがとう、だってさ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、夜維斗は瑛子の方に向かって歩いた。そうだ、先輩の家はこっちにあるんだ、と夜維斗の行動を読み取ろうとした瑛子の頭に、何かが乗せられた。

「大丈夫だ。もう、『いった』」

 頭に乗せられているのは、夜維斗の、少しだけ冷たい手。一瞬だけ言葉の意味が分からなかった瑛子だったが、すぐに理解して、気付いたら口から「ああ」と声が漏れていた。

「そう、ですか」

 夜維斗の手が離れた途端、瑛子の中にあった靄が完全に、消えた。

「ありがとう、って、言ってくれたんだ」

 頬に生ぬるい線が走る。少しずつその線は太くなり、瑛子の頬を冷たく濡らす。

「……悪かったな」

 夜維斗の低い声が、瑛子の目の前から聞こえてきた。

「あいつが、ずっとお前を心配していた」

「そう、だったんですね……」

 ぽつ、ぽつ、と地面に黒い跡ができ、すぐに蒸発して消えた。

「……先輩、ありがとうございます」

 震えた声で瑛子が言う。

「俺は何も」

「私、わかってたんです。リリーが今日、いなくなるって」

 顔を上げた瑛子は、必死で笑顔を作ろうとしていた。しかし、あまりにもぎこちない表情で、笑っているようには見えなかった。

「それがわかったところで、私には何もできないんです。ただ、見えるだけだから」

「それは俺も同じだ」

 瑛子は、夜維斗の黒い瞳を見た。自分と同じ、見えないモノが見える瞳は、真っ直ぐに瑛子を見つめている。

「見えるだけだ。それを見たところで、俺もお前も何も変わらないはずだ」

「……先輩は、優しいですね」

 彼が一体何を考えているのか、次に何を言おうとしているのか、瑛子には全くわからない。けれど、その言葉は、優しさを含んでいることだけはわかった。瑛子の言葉に、夜維斗は少しだけ目を大きく開いた。驚いているのだろうか、と思いながら瑛子は目を細めて笑った。きっと今なら、もう少し笑えるはずだ、と思いながら。

「先輩、ありがとうございます」

 その言葉を受けた夜維斗が、今まで見たことのないような優しい表情を浮かべたように、瑛子には見えた。

 

 

 

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