微妙な距離感、遠近法

 

「……はぁ」

 人が来ない美術室。美術部員である村井なおこ(ムライナオコ)は小さくため息をついた。

「全く、みんなもうちょっと来ればいいのに」

 というなおこだったが、正直本人も美術室に来ないことの方が多い。しかし久しぶりに来たら同級生どころか先輩も後輩も来ていないのだ。ため息が出るのも仕方が無い。

「あーあ、これなら誰か誘えばよかった」

 作品をしながら、なおこはため息を再び吐く。まあ、一人のほうが集中できていいのだけれど、やはり部室に来たなら誰かと会話してわいわいしたい。そう思っていたのだが、三十分過ぎた今でも誰も来ない。

「あーあ」

 そうやって何度目かの息を吐いた。そのとき、美術室の廊下を歩く足音が聞こえた。

「先生?」

 あの大して来ない顧問が? と、なおこが扉を見ると

「あれ、なおこちゃん一人?」

 そこに現れたのは、なおこの予想もしていない人物だった。

「しゅっ、朱月光貴!?」

「うん、そうだけど」

 にこり、微笑んでいるのは珍しく学ランを着た朱月光貴その人だった。なおこは耳まで真っ赤にさせて光貴を指さしていた。その指はすこしぷるぷると震えている。

「来たらダメだった、かな? 活動中とか」

「いや、べ、別に、いいんだけど、さ……え、何で?!」

 突然現れた光貴に対してなおこは混乱を隠せない様子でいた。

「何で、朱月、が、ここに来たのよ?!」

「俺、そんなにここに来るの意外な感じかな……」

「だって、その……美術部でもないし、美術の授業があるわけでもないし……」

「まあ、それもそうだねー」

 それから光貴は美術室に入って、中を物珍しそうに見る。

「へー、美術室ってこんな感じなんだ」

「そっか、美術選択じゃなかったっけ。芸術選択のとき」

「そうそう。俺、音楽選択だから」

 光貴が言うと今度はなおこが「へー」と感心したような声を上げた。そう言っているが、内心緊張はほどけていない。それに、どうして光貴がここにいるかの理由もわからない。

「それで、どうしたの? 朱月が美術室って」

「実は調査でしてね」

 少しおどけたような、そんな笑顔を浮べて光貴は言う。

「調査?」

「そう。俺、オカ研ですから」

 それを聞いて、なおこは「あー……」と納得と呆れの声を上げた。

「だから、今回美術室の怪を調べようと思ってね」

「……美術室の怪?」

 光貴の言葉になおこの表情が少し引きつる。普段自分が使っている教室に、いきなり怪があるなんて言われたら誰でもそんな反応をしてしまうだろう。

「何でも、美術室にあるらしい絵から声が聞こえるとかどうとか」

「うわー、やめてよ。普段ここで活動してるんだからさ」

「あはは、ごめんね。でもほら、美術室とか音楽室とかって七不思議のお決まりじゃん」

 そう言われたら、そうだ。なおこは諦めたようなため息をついて、光貴を手招きする。

「絵なら準備室にあると思う。こっち」

「あ、マジ? ありがとね、なおこちゃん」

 光貴の声を聞いて、なおこは再び耳まで赤くなる。準備室の扉を開ける手が、震えていた。

 

 クラスが一緒な訳ではない。もちろん部活も違う。出身中学も違うし、一年のときにクラスが一緒だった訳でもない。けれど、なおこは光貴に片想いをしていた。

 美術室から大きな荷物を体育館に運んでいたとき、気が付いたら光貴が手伝っていた。

「重くない? 手伝うよ」

 笑いかける笑顔に、胸が高鳴った。「ありがと……」としかぶっきらぼうに言えず、なおこは無言を貫いた。

「じゃあね、なおこちゃん」

 去ってゆく時点で、光貴はいつの間にか名前を呼んでいた。しかし、当時のなおこにとっては「どうして朱月が自分の名を知っているか」よりも「朱月が優しかった!」という思いの方が大きかった。ほぼ一目惚れのような惚れ方だった。

 

「……なおこちゃん?」

 光貴の声で、はっとなおこは現実に引き戻された。準備室の前の扉に手をかけて止まっていたなおこに心配そうな表情の光貴が声をかける。

「大丈夫?」

「え、ええっと……うん。大丈夫。ちょっと、この扉きついから」

 力をぐっと加えて、なおこは準備室の扉を開ける。がらがらがら、と大きな音が響いた。

「音大きいねー」

「ま、あんまり人入らないからね」

 理由になっているのかなっていないのかわからないような事を言って、なおこと光貴は準備室に入る。暗幕が張ってあるせいで、中は昼のはずなのに薄暗い。

「薄暗い……」

「暗幕掛かってるからね。それに人入らないし」

「なおこちゃんさ、人入らないの理由にしてる?」

「あ、バレた? でも実際人入らないのよね。だから薄暗いし」

「うーん、それ違うと思うけど」

 そして二人は奥に入って絵が保管されている棚を見る。

「それで、どんな絵?」

「確か人物画らしいけど……女の子の人物画で、その絵から泣き声が聞こえるとか……」

「はー、そんな声聞いた事ないけどね」

 なおこは棚から絵を取り出して該当するものを探す。しかし、それらしいものは見当たらない。

「これは違うっぽいなー」

「うーん、これとか?」

「いやいやいや、それ、絶対無いって」

 笑う光貴の横顔を見て、なおこは静かに緊張していた。一瞬、絵を渡すときに手が当たって叫びそうになったが、ぐっと堪えた。こんな風に、光貴と一緒の空間にいることは、なおこにとっての幸せなのである。

 そのとき、がらがらがら、と本日二回目の音が響いた。

「……え?」

 心当たりのある音。なおこと光貴は自分たちが入ってきた扉を見た。ぴったりと閉まっている。

「あれ?」

「閉まってる、ね」

 光貴の言葉になおこの頭はさあっと冷たくなった。急いで扉に駆け寄りぐっと扉を引いた。

「……動かない」

「動かないって、また固い、とか?」

「かも」

 すると光貴が笑ってなおこの肩を叩く。

「大丈夫。俺があけるから」

 光貴が取っ手に手をかけて引く。強く引く。力を込めて引く。足を少し大きく開いて、重心を低くして、さらに強く引く。しかし、扉は一切動かない。

「あっれー……?」

「うわ、朱月情けない」

「ひどいなあ。俺、全力出したんだぜ」

「もしかして誰か来て、間違えて鍵かけちゃったのかも」

 いや、そんなことはありえないのだけれど。わずかな可能性を呟くと、光貴は「なるほどねえ」と納得したような声を上げた。それから光貴は学ランのポケットから携帯を取り出した。開いた瞬間、暗い教室に薄い明りが浮かんだ。

「携帯、校内じゃ一応電源切る校則じゃなかったっけ?」

「緊急事態でしょ、閉じ込められたから。でも……」

 と、光貴がなおこに画面を見せる。左の隅にあるはずのアンテナのマークはなく、『圏外』の文字が書かれていた。

「……うっそ。今まで立たなかった事ないわよ」

「一瞬だけ、っていう希望に賭けてみますか」

 光貴は両手で携帯を操作して、メールを作成する。それから送信ボタンを押したものの、すぐに『送信できません』の警告文が画面に現れた。

「あーあ、これじゃ電話も無理っぽいみたいだな」

「あ。じゃあ、内線!」

 なおこは教員用の机の上に乗っている、学校内線の電話の存在を思い出した。すぐに机に向かうが……

「電話線、切れてるねー」

「最悪」

 おおきくため息をついてなおこは床にしゃがみこむ。

「大丈夫、なおこちゃん?」

「うん……何ていうか、ショックで」

「まあ、そうだよね。あ、電気……」

 光貴が入り口そばにあるスイッチを押したが、反応はなかった。つくづくタイミングが悪い、となおこは再び大きなため息をついた。

「なんなのよー、もう」

「まあまあ。他の部員とか来るだろうし、それを待ったら」

「残念だけどほとんど人は来ないわよ」

 美術部は基本的に毎日活動しているが、強制参加ではない。故に、ほとんど部員は美術室に来ることはない。今日だってなおこは友人に声をかけたが、全員用事だとか言って来なかった。

「……困ったな」

「ったく、何が楽しくてオカ研の調査に便乗して閉じ込められないといけないのよ」

「あー、ごめんごめん。じゃあ、無事に出れたら何かしてあげるよ」

 何か、という光貴の言葉になおこは少しだけ顔を上げた。

「……じゃあ」

「え?」

「…………、なんでもない」

 じゃあ、付き合ってよ。なんて、なおこは言えなかった。不甲斐ないと思って何度目かのため息をつくと息が白く染まって見えた。と、同時に背中がぞくりと冷える。

「寒っ……」

 腕を擦り、少しでも暖かくなろうと思ったなおこだったが一向に暖かくはならない。風邪かな、と思ったそのとき背中に何かがかけられた。

「大丈夫、なおこちゃん?」

 振り向いて見ると、光貴は学ランを脱いでシャツとベストの状態になっていた。そして脱いだ学ランはなおこの背中にかかっている。

「風邪?」

「朱月、寒くないの?」

「いや、俺はベスト着てるから平気だけどさ。ほら、なおこちゃんブラウスだけだし」

「……ありがとう」

 ぎゅ、と光貴の学ランを握りしめるなおこ。背中に、先ほどまで着ていた光貴のぬくもりを感じた。

「でも、何で今日は学ランだったわけ?」

「あー、全校終礼だったじゃん、今日。大体この時期みんな学ランなのに俺だけベストだと浮いちゃうから今日は無難にいったわけ」

 確かに髪の色や目の色が特殊な光貴はただでさえ目立つのに、学ランの中一人だけベストとなると更に目立つこととなる。

「でも良かった」

「何が」

「なおこちゃんのために使えて」

 穏やかに笑う光貴を見て、なおこは頬に熱が灯ったのを感じた。ああ、やめてほしい。そう思っていても口には出せないなおこ。

「……ねえ、朱月」

「ん?」

「あんたって、やっぱり好きな人とか居るの?」

 なおこの問いかけに光貴はぱちぱちと瞬きをする。突然の質問に、言葉を失っていた。

「……へ?」

「いや、そのっ……、あんた、誰にでも優しいからさ、いるのかなって……本命とか」

「本命、ねえ」

 なおこの言葉を聞いて光貴は視線を少し上に向けて、考えた。

「いるよ」

「……マジ?」

「うん、普通に本命いるよ」

「陽田さん、とか」

 再び光貴は驚きを隠せずに「え?」と声を上げた。その光貴の顔を見てなおこはやっぱり、と納得したような笑みを浮べる。

「わかるわよ。っていうか、逆に陽田さん以外に誰がいるのよ」

「あー、マジで?」

「一番陽田さんのそばに居るときが朱月、楽しそうだし」

「でも、なおこちゃんと話すのも楽しいよ」

 穏やかに笑う光貴に再び胸を高鳴らせるなおこ。暗幕のわずかな隙間から見える光貴の表情は、輝いて見えた。

「でも、やっぱり違うわよ」

「違うかな……」

「朱月って、意外と鈍感なんだ」

「そんなつもりはないんだけど」

「ううん、鈍感。悲しいぐらいにね」

 そしてそんな鈍感な朱月に思いを伝えられない私はバカ。

なおこは少しだけ泣きそうになりながら光貴の学ランをぎゅっと握った。そのとき、がらがらがら、と大きな音が響く。

「……え?」

「……あ」

 いとも簡単に、扉が開いた。先ほどまで鍵がかかっていたかのように開かなかったのが嘘のようである。そして、その扉を開けたのは、

「月読?」

 光貴が驚いたような顔をしてその名を呼ぶ。扉を開けた夜維斗は部屋の中の光貴と、それからなおこに視線を向けた。

「朱月お前…………、何したんだ」

「待て待て月読。何もしてないぞ」

「変な誤解しないでよね!!」

 夜維斗の一言に光貴もなおこも慌てたように言う。もちろん何もしたわけではないのだが、薄暗い部屋と座り込んだ女子生徒、そしてその肩には学ランとなると何かが起きたと誤解してもおかしくはない。

「冗談だ」

「……月読、お前タイミングっていうのを知ろうぜ……」

「でも何してたんだ」

「んー、里佳に頼まれて七不思議調査をしていたら扉が開かなくなって困ってた図」

 夜維斗に説明した後、光貴はなおこの方に向い、手を差し出した。

「立てる?」

「う、ん……」

 差し出された手をとり、なおこは立ち上がる。

「ありがとう、朱月」

「いえいえ。月読、里佳何処にいた?」

「さあ」

 夜維斗に即答されて光貴はがくりと肩を落とす。

「……あ、朱月。これ」

「ああ、学ラン。忘れてた」

「普段着ないから忘れてた? まあ、ありがとう」

 なおこが微笑むと、光貴も穏やかに笑う。一方、夜維斗はじっと美術準備室の方を見つめていた。

「…………」

 わずかに、小さな笑い声。その声は、夜維斗の耳にしか届かなかった。

「あーあ、でもこれで七不思議解明できなかったぜー……」

「まあないわよね。七不思議、なんて」

 そんな光貴となおこの言葉に、夜維斗は小さくため息をついたのだった。

 

 

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