永久の調べ

 

「ああっ!」

 その若きピアニストは、言葉にならないような叫びを上げて鍵盤に肘をついた。不協和音、と呼ばれるような音色があたりに響く。彼の瞳から涙が溢れて、ぽたぽた、とその雫が鍵盤に落ちた。

「私が弾きたい、『美しい音色』はどこだ! どこにあるんだ!!」

 ヒステリックに叫ぶ彼は、立ち上がり、そばにあるソファに倒れこんだ。うつ伏せになって頭を抱え、意味のない唸り声をあげる。

 彼は悩んでいた。

 幼い頃から両親は彼のピアノの腕を知っていて、その才能を開花させ、そして絶やさないようにしていた。彼は常にピアノと共に人生を歩んでいて、彼は常に『美しい音色』を求めていた。

 彼が生きてきた中で唯一『美しい音色』を奏でると認めたのは、ある女性だった。彼女はプロのピアニストでも何でもなかったが、ピアノとその音色をこよなく愛していた。細く白い彼女の指が奏でる音色を聞いて、彼は彼女の奏でる音色に近付くために毎日練習を重ねてきた。ただ、そのためだけにピアノを弾いていたと言っても大げさではないだろう。

 しかし、彼女は病に倒れた。その病は彼女が生まれ持ったもので、いずれは発病すると言われていたものだった。治療法は見つかっておらず、発病したら彼女には死しか待っていないと言われていた。彼女は病から起きる痛みにも耐えて、ピアノを弾いた。何のためでもなく、自分の愛のためにピアノを弾いていた。

 彼は、知らなかった。彼女が、重い病を持ってピアノを弾いていることを。彼はただ、がむしゃらに彼女の奏でる『美しい音色』に追いつこうとしているだけだった。彼は彼女と言葉を交わしたこともなく、ただ、彼女のピアノを奏でる姿しか見たことがなかった。

 彼女の音色は、日々、美しさを増していた。その美しさは人が死の直前に発する『儚さ』と呼ばれるものであろう。

 ある日を境に、彼女の音色は消えた。彼女は体全身を病に蝕まれ、そして、死んだ。

「あぁぁ、あぁぁぁぁ!」

 それは言葉でも何でもなかった。喚き声、と言うのが相応しいような声を彼は上げた。

 彼女が死んでからというもの、彼はずっと悩み続けている。自分の追い求めていた『美しい音色』はこの世から完全に消えてしまったのだ。彼にとっては、ゴールが闇の中に消えてしまったのと同じこと。

 その日から彼はピアノを弾いても満足しなくなった。両親の言葉も聞かず、与えられた楽譜にも興味を示さなかった。

 それでも、彼は、ピアノのそばから離れなかった。

「どうしてだ、どうして、どうして!!」

 彼は涙を流しながら叫ぶ。『美しい音色』を失った彼の悲しみは、計り知れない。

「どうして、死んでしまったんだ!」

 彼は立ち上がり、ピアノを、まるで叩くかのように弾いた。今までの彼からは想像できない音色だった。

 今までの彼は、彼女の細く白い指が奏でるような、壊れそうな音色を再現しようとしていた。しかし、彼の指先からはそんなものが生まれるはずがない。指の形が違えば長さも違う、弾き方を似せようとすればするほど、彼の音色はぎこちない者となるのだ。そして何より、彼の音色にはあの『儚さ』がない。彼女の音色は死が迫った彼女だからこそ奏でることができたものなのだ。

 今、彼の目の前には楽譜はない。彼が奏でている調べは、今までの彼からは生まれることのないもの。彼は涙をぼろぼろと零しながらピアノを弾き続けている。

 ばん、と、重い扉が閉められたかのような音がその調べの終わりだった。弾き終えた彼は涙と汗を両方出していて、その雫が何の躊躇もなく鍵盤に落ちた。

 彼は、笑っていた。

「……これが、私の求めていたものだ」

 ぽた、ぽた、雫は落ちる。

「私が、弾きたかった、『美しい音色』……これが、私の、音色……」

 雫が鍵盤の上に落ちて、音を出す。少しずつ、それは音から音楽へと変わった。

 

 私は、嬉しかった。

 彼が生まれてから、私はずっと彼と共にいた。だから、彼がどんな音色を求めているのかわかっていた。けれど、彼の求める音色と彼の『美しい音色』が違うことも、わかっていた。

 それでも、私が出来るのは彼のために音色を出すこと。いくら、彼の求める『美しい音色』と違っても、私はその音色を出すことしかできなかったのだ。

 そんな彼が、自分の『美しい音色』に気付いた時、私は嬉しかった。そして、そんな彼の『美しい音色』を奏でることができて、本当に嬉しかった。

 

 永久の調べ・・・彼が奏でる調べは、私の中で永遠となる

 

 

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