Short File:始まりは、メロディー
それはまだ、ミリーネが学生――実習が始まる前の入学四年目だった頃のこと。
「あ」
放課後、授業が終わって帰ろうと友人たちと廊下を歩いていたミリーネだったが、唐突に声を出して足を止めた。友人たちは一瞬気付かずに進んでいたが、数歩先で立ち止まり、振り向く。
「どうしたの、ミリーネ?」
「ごめん、忘れ物した」
「えー?」
「先に帰ってていいよ。じゃ、私戻るわ」
友人の不満げな声を聞きながら、ミリーネは進行方向とは逆側に向かってぱたぱたと走って行った。
それからミリーネは、先ほどまで授業をしていた教室に戻った。自分の机の中身を確認すると、緑色のクリアファイルが入っている。何枚も入っているプリントをめくると、目的のプリントがあった。
「よかったー……。これないと、課題できないもんねー」
これで一安心、と思いながらミリーネはクリアファイルを鞄に入れ、教室を出る。時刻は午後四時半を過ぎ、窓から入り込む陽射しは夕暮れ時と言うように赤に近い橙色に染まっていた。いつも見慣れている廊下も、入り込む陽射しの色だけで雰囲気が全く違って見える。
「……さて、と」
一瞬その光景に見とれてしまったミリーネだったが、小さく自分を切り替えるように言って、友人たちがすでに向かった方へ進もうとした。
――音が、聞こえた。
「……ん?」
足を止めて、振り向いた。耳を澄ませて音を聞くと、それはピアノの音だった。
「誰だろ、こんな時間に……」
魔術指導訓練所では部活動やサークル活動などはない。そういった活動は基本的に学外で行われるものである。教養授業の一環として音楽があり、音楽室にはピアノも設置してあるが、それが放課後に鳴ることはなかった。
「まさか、幽霊、とか?」
呟きながらそんな非現実的なものがあるはずない、と思いながら、ミリーネは足を音楽室に向けていた。
音楽室に近づけば近づくほど、ピアノの音色は大きくなってゆく。クラシックの、何か聞いたことのある曲。音楽の知識があまりないミリーネはぼんやりとそんなことを考えながら、音楽室の前で立ち止まった。音楽室の扉はわずかに開かれていて、そこから音が漏れていた。
「……誰が、弾いてるんだろ」
ただ、単純に興味があっただけだった。ミリーネはそっと扉の隙間から教室内を見た。ちょうど扉から見て正面、教室の窓際にピアノがあった。そこに、ピアノを弾いている人物も、いる。
「……」
肩にかかるまでの髪。軽く閉ざされた目。管理局の制服を着たその人物は、ミリーネの存在に気付いていない様子で、ピアノを弾き続けていた。背中から橙色の夕日を浴びているため、顔ははっきりと見えなかったが、綺麗な顔立ちだと、ミリーネは思った。直後、ピアノの音が止まった。
「……え」
「誰だ?」
聞こえてきた声が想像よりも低くて、ミリーネは驚いた。驚きのあまり、持っていた鞄を、落としてしまうほどだった。
「あっ?!」
「ん?」
ミリーネが慌てて鞄を拾おうとしゃがんでいると、扉が開かれ、先ほどまでピアノを弾いていた人物がミリーネの背後に立った。
「大丈夫か?」
「へっ、えと、あの」
混乱しているミリーネはしゃがんだまま鞄を胸の前で抱きかかえながら、返事をしようとした。が、出てくる言葉は意味をなさないものばかり。
低い声は、間違いなく男のもの。てっきりピアノを弾いていたのは女性だと思っていたミリーネの混乱は余計強まるばかりだった。
「もしかして、驚かせた?」
へらり、と笑いながら男はミリーネと視線を合わせるようにしゃがむ。目の前に男性の顔がある、というシチュエーションに慣れているはずもないミリーネは顔を真っ赤にさせて「あのっ、あの……」と必死で言葉を探していた。その反応が面白かったのか、男は小さく吹き出した。
「そんなにビビるなよ、取って食うわけでもないんだから」
「ごっ、ごめんなさい……」
「それで? 放課後に学生がこんなところで何してんの?」
「えっと、むしろそれは、私が聞きたい……」
最後の方は小さな声になりながらもミリーネは尋ねた。それを受けて、男は「え? ああ」と納得したように頷いて、立ち上がった。それからミリーネに背を向け、音楽室に入る。ミリーネもつられて立ち上がり、男について行く。
「暇つぶし。ちょっと仕事サボって趣味に没頭してただけ」
「趣味?」
「そ」
頷いて、男はまたピアノの前に座る。そして、ミリーネの方を向いてにやりと笑った。
「リクエスト、ある?」
「え?!」
唐突な振りに、ミリーネは驚きの声を上げる。助けを求めるように周りを見るが、もちろん誰もいない。そんなミリーネの反応を見ながら、男は笑う。
「……じゃ、じゃあ、さっきの続き」
「それでいいの?」
「私、あんまり音楽詳しくないから、わかんなくって……」
「そっか。じゃあいいよ、さっきの続きね」
男は小さく息を吸い、それから鍵盤に触れる。指先が動くたびに、音が広がってゆく。目の前でピアノの音色を聴くと、先ほどまで教室の前で聞いていたよりも迫力があった。
「……」
瞬きも、できなかった。音楽は流れ続けているというのに、時間が止まったような感覚すらあった。
ミリーネはただ、目の前でピアノを弾き続ける男を、見るしかできなかった。
鍵盤をたたく指は、男性のものというには少し細いようにも思えた。その指先から、何重もの音色が響いていると思うと、不思議な光景を見ているような気がした。そして、指が最後の音を鳴らすと、部屋の中に静寂が戻ってくる。
「……っと」
静寂を打ち消すように、男が小さな声を上げた。それを受けて、ミリーネははっと視線を鍵盤から男の顔に向けた。男は穏やかな、優しげな笑みを浮かべている。
「さて、俺は満足したからこれで帰るぞ」
「あっ、はい」
立ち上がった男はミリーネとすれ違うように歩いて、音楽室を出た。その時、ミリーネの頭にぽん、と何かが――男の手が乗った。
「じゃあな、かわいい学生ちゃん」
「なっ?!」
ぐしゃぐしゃと頭をなでながらの一言に、ミリーネは驚きの声を上げた。慌てて振り向いて扉の方を見るが、すでに管理局の制服姿はない。
「……何、あの軽い男っ」
一番嫌いな人種、軽い男。ミリーネの中にあった彼への熱は一気に氷河期まで冷え切った。
「二度と会いたくない……!」
ピアノは素敵だったのに、という言葉は付けずにミリーネは怒り任せに歩みながら音楽室を出た。
これから訪れる地獄の実習先に彼がいることを、ミリーネはまだ、知らない。